猫のマリア様 ~薔薇さま方の猫~ #5

 



 ゴロンタは、前白薔薇さま、つまり現白薔薇さまのお姉さまが、可愛がっていた猫だという。
 まだ子猫だった頃、校舎の裏手でカラスに襲われたところを助けられ、中庭に連れてこられたそうだ。
 確かに、人っ気のないところで敵に襲われるより、女子高生にわーきゃー言われていた方が、猫としても安全だろう。
 背中には、微かに毛の生えていない傷跡があるそうだ。
 もっとも、ゴロンタが身体を触らせるのは、現時点ではただ一人、紅薔薇さまだけだという。
 その紅薔薇さまの周りに誰かがいると、やっぱり警戒してあまり近寄ってこないらしい。
 それほど警戒心の強い猫なのだそうだ。


 エリザベスは、今では立ち上がれるようになった。
 最近は点滴も不要で、ミルクのような液体から半固形物、果ては普通の食事(ドライフード)まで食べられるようになっていた。
 叔父さんによると、あと二週間で退院とのこと。
 基本的に野良だから、飼い主が投薬することが出来ない。
 だから薬の必要がなくなるまでは、ここにいないといけなくて、それが治療期間を長引かせていたのだ。
「長かったねー、エリザベス。もう少しで退院だって」
 声を掛けながら、ブラッシングをする。
 特に嫌がる素振りも見せず、むしろ気持ちよさそうに目を細めて、なすがままにされている。
 邪魔なカラーでさえも、特に気にする様子を見せない。
「もう少しの我慢だからねー」
 喉をくすぐると、ちゃんとゴロゴロと鳴らしているし。
 とはいえ、ただ遊びで撫でているわけではなくて、体調やら皮膚の様子も観察しているのだ。
「ん、よしよし。健康だね」
 取り敢えず、外側は。
 患畜用のベッドの上でおとなしく横たわるエリザベスを抱き上げ、そっと掃除したてのケージへと戻す。
 代わりにベッドに乗せられたのは、遊びたい盛りの、文字通りの箱入り娘。
 外に出して欲しくて、中で子猫がジタバタ暴れている。
「あーっ、もう、わかったからっ」
 箱から出そうと両手を入れると、子猫は私の右手を駆け上り、肩までやってくると、今度は左手を駆け下りて、再度箱の中へ。
「おバカ……」
 何が楽しいのか、二周目に突入して。
「私ゃ『猫タワー』か……」
 まだ、爪研ぎされないだけ、いいけれど。
 やれやれって感じで、目だけでこちらを見るエリザベス。
「ねえ、エリザベス……」
 子猫を押さえつけ、くすぐって遊びながら、私はケージに向かって声を掛ける。
 エリザベスは身動き一つせず、ただしっぽを振って私の声に応えて──いや、答えてくれている。
「身体、治ったらさ、うちの子になる?」
 そう言った瞬間、エリザベスはぴたりとしっぽを止めた。
「やっぱり学校に……リリアンに帰る?」
 リリアンという言葉に、エリザベスはぴくりと反応した。
「……ねえ、ゴロンタ……」
 ハッと顔を上げ、エリザベスは私に顔を向けた。
 私の手の中で、ただ子猫だけがジタバタ動いていた。


 次の日の昼休み、久しぶりに私は教室から出ていた。
 一年松組で待つよりも外を探した方が、逢える確率は格段に跳ね上がるのだから。
 果たして、探し人は、割と簡単に見つかった。
 本来、目立つお方だから。
「ごきげんよう、白薔薇のつぼみ」
「あら、ごきげんよう。珍しいわね」
 教室の外にいるなんて、と、白薔薇のつぼみは笑った。
「今日は留守番なんです。あの子」
 生後一ヶ月検診で、叔父に診察してもらっているのだ。
 もっとも、動物病院に棲んでいるので、毎日が診察状態なのだが。
「そう、それは寂しいわね」
 胸元が、ちょっと涼しいくらい。
 これから暑くなるので、そろそろ胸に入れるのは勘弁して欲しいところだ。
「あの子、なんていう名前なの?」
「特に名付けてませんけど、今のところ『ちびマリ』ちゃんが最有力候補ですね」
 次点で『ちび』ちゃんと『にゃんこ』ちゃんが、ほぼ同率。
「ああ、そういえば、そう呼んでいたわね」
 大天使(ミカエル)さまが、と、クスクスと笑われる。
 一体、いつ聞かれていたのだろうか。
 山百合会の情報収集能力の高さに、改めて驚愕した。
 そんな山百合会でも、エリザベス──ゴロンタのことは、わからないのだろう。
 だから、私から口を開くしかなかったのだ
「あの、あと二週間下さいと、お伝え頂けませんか?」
 ──紅薔薇さまに。
「わかった。それまで突(つつ)くな、と、釘を刺しておくわ」
 それ以上、白薔薇のつぼみは、深いことはお尋ねにならなかった。
 ただ、私の言うことだけを聞いてくれて。
「お昼はどうするの? 何なら、薔薇の館に行く?」
「……勘弁してください」
 薔薇の館に出向けるようなら、伝言など頼みませんし。
 呵々と笑って、白薔薇のつぼみはこの場を後にした。
 残された私は、ただ彼女が立ち去った方向を、ぼーっと見つめるだけだった。
 私を見つめる人たちが周りを囲んでいるのに気づかずに。


 そして、二週間後。
 梅雨明けにはまだ早いけれど、ずっと晴れ間が続いていた。
 期末試験の一週間前は、主な部活動は、特別な事情を除けば朝練も含めて、全てが禁止されている。
 だからこの時期、少々早めに登校すれば、ほとんど誰にも会うことがないのだ。
 そんな人っ気のない校内の、さらに人気のない中庭の隅に、私は向かっていた。
 手には、折り畳み式のペットキャリー。
 中には、この二ヶ月間ほど棲み処を離れざるを得なかった、リリアンの主。
 適当な木陰を見つけて、私はキャリーを降ろす。
 蓋を開けると、中からゆっくりと、カラーの着いた猫が出てきた。
 外の明るさに慣れるように、ゆっくりと。
「長い間、よく我慢したね」
 そう言って私はその場でしゃがんで、彼女の名前の由来となった、首のカラーを外した。
「もういいよ、エリザベス。いや、ゴロンタ……だったね」
 私の言葉を待って、エリザベスは自分の舌で、久しぶりの毛繕いを始めた。
「ご飯は、ここに置くからね。様子見に来るから、あまり無理しちゃダメだよ?」
 ドライフードを木の根元に置き、キャリーとカラーを片付ける。
「さて……。じゃあ、私は、もう行くね」
 名残惜しいが、仕方がない。
 よっこいしょ、と、およそ女子高生らしくない掛け声で立ち上がろうとした矢先──。
「やっぱり貴女が、連れて行ってたのねっ!」
 ──紅薔薇さまだった。
「貴女がどういうつもりで連れ出したのか知らないけれど、この猫は、ここ(リリアン)から連れ出していい猫じゃないのよっ!」
 半分泣きそうな、それでいて激怒にも似た表情を顔に浮かべて、紅薔薇さまは私に詰め寄って来られて。
 今にも私に掴み掛かろうとした瞬間。
 エリザベスが「ニャー」と鳴き、何処かへと走り出した。
「あ、ゴロンタっ!」
 紅薔薇さまは慌ててエリザベスを追いかけようとなさったが、タイミング悪く、私の方によろけてしまわれて。
 私は肩を突き飛ばされる格好になって、背中を木に打ち付けてしまった。
「やれやれ、紅薔薇さまともあろう人が、後輩いじめ?」
 呵々と笑いながらやってきたのは、足下にじゃれつくエリザベスを抱き上げた、私服の女性。
 かなり大人っぽいけど、先生ってわけでもなさそう。
「で、でも……」
 言っちゃ悪いが、あの紅薔薇さまが、子供に見える。
「この子が、ゴロンタを連れ去ってて……」
「ん?」
 私服の女性は、私の荷物とエリザベスを見比べ、挙句にエリザベスを、まるで子供を抱き上げるような、お腹丸出しの抱き方をした。
「ゴロンタ、お前、怪我したの?」
「えっ?」
 驚いた紅薔薇さまは、彼女の下へと駆け寄った。
「ほら、お腹に手術の跡があるよ。それに」
 私の荷物に目をやって。
「彼女の持ってるの、エリザベスカラーだよ。怪我した動物が患部を舐めないようにするための、ね」
 確認するような目で見られて、私は頷くしか出来なくて。
「そ、そうだったの? ごめんなさい、私……」
「あ、頭を上げてください、紅薔薇さま。私も、もっと早くに相談すれば、こんなことには……」
 お互いが頭を下げあって、収拾がつかなくなったところで、私服の女性が呟いた。
「手術代、高かったでしょ。いくらした?」
「えっと、お金は……払ってないですから」
「踏み倒し?」
「いえ、うちが動物病院なので……」
 いくら掛かったかは知らないが、このひと夏バイトすれば、取り敢えず何とかなるだろう。
 もちろん、リリアン女学園はバイト禁止なので、うちの病院で働くこととなるのだが。
 じゃあ甘えちゃおう、と、軽いノリで言う女性。
 でも、感謝の意は、痛いほど伝わった。
「しかし、何して怪我したのさ? 手術するほど」
 エリザベスは、女性に抱かれたままそっぽを向く。
 だから、私が口にした。
「この子、カラスに襲われてて……」
「またかっ!」
 ぺんっと頭を叩く。
 ああ、この女性が、白薔薇さまのお姉さまなんだ、と、今になってようやくわかった。
「どうして、とっとと逃げないの?」
「逃げられなかったんですよ。カラス、五羽くらいいましたし、それに……」
 私は、胸元から子猫を出した。
「この子、そのエリ──ゴロンタの子供なんですけど、この子を護ってて……」
 あと五匹いたけれど、それらは助けられなかった……。
「そっか……」
 元白薔薇さまはゴロンタを地面に置き、私はその前に子猫を置く。
 子猫はゴロンタにじゃれついて、ゴロンタは鬱陶しそうな顔をしていて。
「一応、離乳は済んでますから……」
 そう言って、私は薔薇さま方に頭を下げた。
 後ろ髪引かれるが、仕方がないし、ちょうどいい機会だ。
 この日のために、この別れのために、私はこの子に名前を付けなかったのだから。
(じゃあね、元気で頑張るんだよ……)
 口に出したら、泣きそうで。
 心の中で呟いて、私は一歩、また一歩と、その場を離れる。
 本当は走って逃げたいけれど、足が重くて動かない。
 だから、一歩一歩、私は進むしかないのだ。


 どれだけ歩いても、私は中庭を出ることが出来なかった。
 目に入る景色は、全然変わらなくて。
 そのうち視界がぼやけてきて、もう何が何だかわからなくなってきた。
 それでも、そんな状態でも耳に入る声が、私の足を止める。


『みーっ!』


 それは、子供が親を呼ぶ声。
 自然界で親とはぐれたら生きていけないから、必死になって叫ぶ声。
 親は、そこにいるから。
 お前を産んだ母親は、お前の目の前にいるから。
 そう自分に言い聞かせ、私は動かなくなった足で立ち去ろうとするけれど、どうしても足が動かせなくて。
 耳を塞ごうにも、今度は手も動かせなくて。
 なす術もなく立ち尽くす私の、その恨めしい足に、ふと重みが乗った。
 ゴロンタ──エリザベスが、私の足に身体をすり付けていたのだ。
 どれだけ追いかけてきたのか、振り向くのが怖かった。
 あの子も一緒に追いかけてくるんじゃないかと思って。
 今度あの子に触れたら、もう二度と手放せなくなるから。
 だから、声すらも掛けられなかったというのに。
 でも、エリザベスを見た瞬間、私はその場に崩れ落ちた。


『みー』


 エリザベスが、あの子を咥えて、連れて来ていたのだ。
 へたり込んだ私の前に子猫を置き、じっと私の目を見る。
 子猫は子猫で、私の制服をよじ登り、胸元に入ろうとしてセーラーカラーのタイと格闘し始めて。
「……いいの? 私が、このまま育てても……いいの?」
 エリザベスは、私の足に散々身体をすり付けて、そして「ナー」と鳴いて立ち去った。
 子猫を置いて──。
 私は、子猫を抱えて、声を上げて泣いた。
 そんな私の肩をぽんと叩く人がいて。
 見上げたら、紅薔薇さまがハンカチを差し出してくださっていた。
 ご自分も、号泣なさっていたのに……。
「そういえば、キミの名前、訊いてなかったね」
 元白薔薇さまに尋ねられ、私が名乗ると、元白薔薇さまは笑って仰ったのだ。


 ──なるほど、確かにキミは『猫のマリア様』だね、と。




to be continued...