薔薇の館は、高等部校舎の中庭の隅にぽつんと建つ、古い木造二階建ての小さな建物で、山百合会──リリアン高等部生徒会──の本部として薔薇さま方の活動拠点となる、一般生徒の憧れの場所。
そんな予備知識なんて、あってもなくても同じこと。
いざ、館の前に来てみると、その趣のある佇まいに圧倒され、思わず足がすくんでしまう。
「確か、一般生徒って、山百合会の会員……だったよねぇ」
理論上は、確かにそうだ。
生徒会の会員が、生徒会室に入るのを咎められることは、きっとない。
余程重要な会議とか、行っていなければ。
ましてや、今日、私はここに呼び出しを受けているのだ。
私には、だから館の中に入ることが許される。
自分自身にそう言い聞かせ、握り拳を作ること、数回。
……ドアをノックすることすら出来ずに、今に至る。
「……入らないの?」
「うひゃあっ!」
背後からの声に、思わず飛び上がる。
慌てて振り向くと、そこには白薔薇のつぼみが。
「ご、ごきげんよう……」
「はい、ごきげんよう」
クスクス笑いながらも、返事をしてくれた。
「貴女自身が、猫みたいだね」
ああ、この人も笑うんだ……と思ったのは、内緒だ。
その後は白薔薇のつぼみに先導され、あっけなく館の中へと入ることとなった。
「下で声を掛けても誰も出なかったら、中に入ってきていいから」
何故か私には用のない『館の心得』なるものを伝授されつつ、ギシギシと鳴る階段を昇る。
「話し込んじゃってると、聞こえないんだよね。下でノックされてもさ」
二階には、ビスケットに似た扉が一つ。
その扉を、白薔薇のつぼみは無造作にノックする。
「はい、どうぞ」
中から柔らかな女性の声がした瞬間、白薔薇のつぼみはいきなり扉を開けた。
「ごきげんよう、お姉さま方」
白薔薇のつぼみの挨拶に、何故か返事の代わりに、あれー、とか、おや、とか、別の人たちの声がした。
「あら、今日は会合、なかったはずよ?」
そう言って顔を出したのは、先ほどの柔らかな声の人。
ふわふわの柔らかそうなウェーブがかった髪の、西洋人形にも似た、超が付くほどの美人さんだった。
「うん、でも、マリアさん連れてきたから」
「そう、ありがとう。中に入ってもらって?」
こうして見ると、白薔薇のつぼみは、切り揃えられた黒髪と相まって、さながら市松(いちま)人形か。
すると、この美女は、白薔薇さまなのだろう。
こんなに間近で見るのは初めてだけれど、確かに生徒たちがわーきゃー騒ぐのもわかる気がする。
──遠目に見た場合に限って。
白薔薇のつぼみも凄かったけれど、さらにその上を行く威圧感は、さすが薔薇さまで。
とてもじゃないけど、近寄れない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、白薔薇さまはにっこりと微笑んで私たちに入室を促すのだった。
二階の、サロンと呼ぶに相応しい会議室には、中央に真っ白なクロスの掛かったテーブルがあって、そこには先に二人の女性が着いていた。
向かい合わせとなる席に通され、言われるままに着座する。
白薔薇さまがお二方の隣に座り、これにて薔薇さま勢揃い。
「紅茶でよかった?」
「あ、いえ、お構いなく」
もう淹れちゃったから、と、私の目の前にカップを置いた白薔薇のつぼみは、薔薇さまお三方にも紅茶を出すと、私の後ろに控えて立った。
……これじゃ、何があっても逃げられないんですけど?
「ねえねえ」
身を乗り出すように顔を向けてきたのは、黄薔薇さま。
瞳をキラキラ輝かせて、とても嬉しそうに話し掛けてきた。
「貴女、猫の言葉がわかるって、本当? 話も出来るの?」
一体、どんな噂が流れているのだろう?
「いえ、普通の飼い主さんと同じで、表情で何をして欲しいかがわかるだけです」
「あ、そうなの」
それでも表情がわかるのが凄いと、褒められた……かな?
そんな、フランクに接してきた黄薔薇さまとは違って、紅薔薇さまは、何処か憂いというか、終始真剣な表情で。
「貴女、ゴロンタ知らない?」
……はいっ?
「ゴロンタよ、ゴロンタ。知ってるの? 知らないの?」
「あ、あの……」
とても知らないとは言いにくい雰囲気。
「落ち着いて、紅薔薇さま。それじゃ何も言えないわ」
白薔薇さまが助け船を出してくださった。
「ゴロンタというのは、リリアンに棲み着いている野良猫の名前なの」
学校に棲んでいる野良猫と聞いて、真っ先にエリザベスを思い浮かべた。
入学して二ヶ月半。
校内で猫といえば、まだそれしか見ていない。
でも、名前からしてオスだろうから、エリザベスとは違う子なのだろう。
「その猫は、紅薔薇さまが飼われているのですか?」
「いえ、たまに餌をあげる程度よ。基本的に野良だから」
誰かが飼っているというわけではない、と、白薔薇さま。
紅薔薇さまは、ただ不安げな顔で俯いていて。
黄薔薇さまは、ただニコニコと楽しげな笑みを浮かべるだけで。
だから、話は白薔薇さまとするしかなかった。
「ここ一ヶ月ほど、姿を見せないの。普段は昼休みに、誰か彼かが見掛けるのだけれど」
あいにくと、私は昼休みに教室の外に出ることは、全くと言っていいほどない。
子猫のおかげで、とても出られる状態じゃないのだ。
もっとも、一年松組のクラスメイトたちも、余程のことがない限り教室を出ようとはしないのだが。
「ごめんなさい。私、お昼は外に出ないので……」
「ああ。貴女は一年松組だったわね」
今、心臓が、きっかり二秒止まった。
「そ、それが……何か?」
「いえ、一年松組は、とても仲がいいって、先生方の評判になっていたから」
にっこりと微笑んで、白薔薇さまは仰った。
まるで、私の緊張を解そうかとも思うくらいに。
「すでに学園祭の出し物も決めていて、もう今から練習しているんですってね」
さすがに練習まではしていないけれど、解かなきゃならない誤解でもないので、そのままスルーしておく。
「何でも、クラスには聖母マリア様に、大天使ミカエル様までいらっしゃるとか」
白薔薇さまの笑いが、にっこりからクスクスに変わる。
前言撤回。
誤解は解かなきゃならない。
「いえ、それは単なるあだ名であって、私たちは何も……」
「ええ、わかっているわ。でも、名前で呼ばれるリリアンであだ名が付くって、素晴らしいことではなくて?」
確かに、それはそう思う。
とても仲のいい証拠だと。
ただ、名前負けするのは否めない。
「一年生でもリーダー格が二人も揃って、しかも仲がいいなら、団結しない方が不思議よ。これからも頑張ってね」
白薔薇さまは、薔薇さま方は、恵実留さんのことも当然ながらご存じだった。
「恵実留さんは確かにリーダーですけど、二人って?」
「あら、入学式で新入生代表の挨拶をされたのは、何処のどなただったかしら?」
……ここの、私でした。
「そうじゃなくってさっ!」
ガタンと音を立てて、勢いよく立ち上がる紅薔薇さま。
一拍の間をおき、何故かお顔に輝きが増す黄薔薇さま。
ちなみに、黄薔薇さまの視線が私に向いてないのは、気のせいだと思いたい。
「ゴロンタは、どうなったのよ。ゴロンタは」
あのね、と紅薔薇さまのお名前を呼んで、白薔薇さまは諭すように仰った。
「いくら猫に詳しいとはいえ、入学間もない一年生が、学校に棲んでいる野良猫のことまで知ってるとは思えないの」
「そ、それは……そうだけど」
紅薔薇さまの心配するお気持ちも、わからなくはない。
「あの、私、出来るだけ気をつけて見るようにしますから」
だから、そのゴロンタという猫の特徴を、詳しく聞かねばと、そう思った。
口に出して尋ねてみると、そうね、と白薔薇さまは小首を傾げて、そして話してくださった。
でも、聞けば聞くほど、その特徴がエリザベスに酷似していて、薄ら寒くなる。
「どうしたの?」
後ろから、声がした。
そういえば、白薔薇のつぼみがいらっしゃったのだった。
私が小刻みに震えているのがわかったのだろう。
「い、いえ、大丈夫です……」
振り返ることも出来ずに、ただ私はそう答えた。
「それでは、今日のところはお開きにしましょうか」
白薔薇さまが席を立ち、それを合図に白薔薇のつぼみがテーブル上のカップに手を伸ばす。
「いいわ、後片付けは私に任せて。貴女は彼女を送ってあげなさい」
白薔薇のつぼみの動きを制し、白薔薇さまは部屋の扉を開けた。
「じゃあ、お先に失礼します。ごきげんよう。……ほら」
貴女も挨拶なさい、と軽い肘鉄を食らう。
「あ、本日はお招きありがとうございました。先ほどの……ゴロンタってオス猫を見掛けたら、すぐ知らせますんで」
私の言葉に、思わず互いを見合う白薔薇姉妹。
「……ゴロンタは、女の子よ?」
何が何だか、わからなかった。
ただ私は、白薔薇のつぼみに手を繋がれて歩いていた、ということは、マリア像の前で手を離されることで、初めて理解したのだが。
形だけのお祈りをして、またも手を引かれて校門の外へ。
「バス停で、よかったかしら? どっち行き?」
「あ、K駅方面の──」
「じゃ、一緒だ。こっちよ」
さすがに毎日使うバス停なので、それは私もよくわかっている。
それでも、有無を言わせず白薔薇のつぼみは、私の腕を引っ張ってバス停まで来ると、ベンチに私を座らせた。
「悪かったわね、今日のことは」
「えっ?」
心当たりのない謝罪に、思わず声が出た。
「薔薇さま方さ、悪気はないんだけど……」
強引なんだよなぁ、と零す白薔薇のつぼみ。
愚痴を聞くのもそうだが、案外表情が変わるのも新鮮で。
クール&ビューティーと聞いていたから、ちょっと吃驚。
「なんか飲む? 奢るけど」
白薔薇のつぼみは自販機を示されたが、私は丁重にそれを断った。
「いえ、水筒がありますんで……」
中は単なるお湯で、そろそろ冷めてぬるま湯になっているだろうが、口を湿らせるくらいならちょうどいい。
私はポーチから水筒を出し、蓋を開け……ようとしたら、その音を聞いて子猫が胸元から出てきた。
「こら、お前のご飯じゃないから」
「あ、こんなところにいたんだー」
「ええっ?」
いきなり私の前に、白薔薇のつぼみがしゃがみ込むと、私の胸に手を伸ばされたのだ。
「あはは、可愛いなぁー」
ちょんちょんと指を出されて、子猫と握手しようとされて。
「お願いだから、爪立てないでよ? 白薔薇のつぼみに怪我されたら、私、明日からリリアンで生きていけないんだからねっ」
そんな大袈裟な、と、白薔薇のつぼみは声を上げて笑われた。
ただ、そのお声が他の生徒の視線を一瞬で引きつけた辺り、あながち大袈裟とはいえないんですけれど……。
まあ、白薔薇のつぼみが……とか、下級生と楽しそうにお戯れに……とか、遠くに聞こえる声に、私はある意味身の危険を感じた。
端から見ると、下級生の胸を弄ぶ上級生の図で……。
だから私は、話の矛先を変えることにしたのだ。
「あ、あの……お訊きしたいことがあるんですが……」
それは、ゴロンタという猫の話。
何故、あそこまで紅薔薇さまが執着なさるのか。
白薔薇のつぼみは、知ってる限りでいいなら、と、全てを教えてくださった。
さらには、私のことは名前で呼んでくれると嬉しいな、と、そのお名前と共に。
翌日、新聞部発行の学校新聞『リリアンかわら版』に、今日のこのことが写真付きで掲載され、白薔薇のつぼみはともかく、私までが何故か時の人となるなんて、思いもしなかった。
to be continued...