猫のマリア様 ~薔薇さま方の猫~ #3

 



 衆人環視の中、自分の席に着き、机の上に紙おむつをシート状に広げる。
 その上に胸元から取り出したものを置くと、みんなの目はそれに釘付け。
 さすがにリリアンの淑女たちとあって、わーきゃーと叫ぶ人はいなかった。
 もっとも、全員が全員、とろけるような顔をしていたが。
 小さいもの、可愛いものに、女の子は目がない。
 それが愛玩動物、しかも赤ちゃんならば、言わずもがな。
 みんながうっとりしてるその間に、私はポーチからステンレスの水筒とペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、水筒のコップでミルクを作る。
 水筒のお湯はまだ熱く、水で薄めないと飲めないのだ。
「貴女、何を咥えていますの?」
「めんぼー」
 私の口には、綿棒が三本。
 排泄を促すためには、お尻を刺激する必要があるが、親猫と違って、さすがに私は子猫のお尻を舐めてやれない。
 濡れティッシュを使う人もいるが、ついでに目やにを取ったり耳掃除をするために、私は綿棒を使う。
「ちょっとごめんね。臭いかも」
 湿った綿棒でコチョコチョとくすぐるように子猫のお尻を撫でると、便意を催したのか、その場でしゃがんでトイレのポーズ。
 出すものを出して満足したのか、子猫は立ち上がって机の上を探検しようと動き出す。
「お前、全部出した?」
 子猫を無造作に掴むと、周りからハッと息を飲む音がするが、取り敢えず気にしない。
 まだ咥えていた綿棒で、もう一度お尻を拭う。
 便意を催さなければ、そのままお尻の掃除。
 残った綿棒は、毛繕いや顔の掃除に使う。
 そうじゃなければ、またトイレ。
 お尻拭きに綿棒を使う。
 三本咥えていたのは、そのためだ。
「ん、全部出たな。よしよし」
 全身くまなく掃除したら、次はミルクだ。
「恵実留さん、ちょっと持ってて」
「え? 私が? あの、ちょっと……」
 私のすぐ目の前、机を挟んで向かい側に座っていたのが彼女だったから、仕方がない。
 有無を言わせず、両の掌に子猫を乗せると、今度は恵実留さんがカチンコチンに固まった。
 いいなぁ、とか、羨ましいわぁ、とか、声がすればするほど恵実留さんの狼狽度は増す。
 どれだけの力を入れて触ればいいのか、その加減がわからないのだろう。
 指先までカチカチに緊張した彼女を見るのは面白い……いや、忍びないのだが、その間に机の上を片付けねば。
 排泄物の乗った紙おむつを、ファスナー付きのビニール袋に入れる。
 さすがに教室のごみ箱には捨てられないから、家に持ち帰らなければならず、臭いの問題もあるので、普通のビニール袋では具合が悪いのだ。
「さて……」
 先ほど作っておいたミルクを注射器に吸わせて。
 未だ固まっている恵実留さんはそのまま、彼女の手に乗る子猫を突いて転がす。
「んー? 恵実留さんの手の中は、気持ちいいか?」
 私の指を手足でがっしり掴んで、子猫は口へと運ぶ。
「これは食えないでしょうが」
 私は笑って指を抜き、代わりに注射器を差し出す。
 子猫のミルクの飲みっぷりを見て、恵実留さんは目を丸くしたものの、しばらく眺めているうちに、段々と子猫を見る目が優しくなってきた。
 慈愛に満ちた目、というのだろうか。
「……生きている、のですね」
 恵実留さんは、そう、しみじみと呟く。
 手の中にある命を、実感しながら。
「うん。母親がお腹を怪我して、お乳与えられなくて、ね」
 注射器二杯目、まだ飲むか。
「まだ目も開かない時期だったから、目が離せなくて。お乳も二時間ごとにあげなきゃならないから、おちおち寝てもいられないのよ」
「そうなの……。それで、学校を休んでらしたのね」
 先生には内緒ね、と言うと、恵実留さんはくすりと笑った。
 子猫は、お腹が一杯になったと思ったら、遊びもせずに眠りについた。
「あら、寝ちゃったわ……」
 小声の恵実留さんから子猫を受け取り、出したときと同じく無造作に制服の中へと戻す。
「あ、言っとくけど、私エンコーなんてしてないから」
「ええ、信じているわ」
 子猫を見るときと同じ優しい目で、恵実留さんは私を見ていた。
「命の何たるかを熟知している貴女が、自分の身を貶めることなんて、出来るはずがないもの」
 そして、私たちも食事にしましょう、と、恵実留さんが音頭を取って、クラスメイトがそれぞれに動き出す。


 この一件によりクラスの団結がより一層強くなり、恵実留さんとの友情は、より一層固くなった気がした。


「ごきげんよう、マリア様」
 と、笑う大天使(ミカエル)。
 いつしか、私には『マリア様』という、大層罰当たりなあだ名が付いていた。
 本物のマリア様と区別するために、頭に『猫の』が付くのだが。
 不謹慎だと教職員からお咎めが来るかとも思ったが、意外にも華麗にスルーされていた。
 さすがに毎日連れてきたため、担任には子猫のことがバレてしまったが、そこは子猫本人の演技力(?)に任せたところ、こちらもお咎めがなく、逆に毎日出欠を取られる始末。
 やっぱり、小さくて可愛いものには敵わないらしい。
 さらには『ミカエル』というあだ名も担任には大ウケで、ラファエルやウリエルは誰なのかと聞かれたりもしたから、他の教職員を抑えるのに一枚噛んでいるのかもしれない。
 ちなみに、学園祭のクラス出展は、早々に『受胎告知』の劇に決まったのは、いうまでもない……。


 閑話休題(それはさておき)。


「ちびマリちゃんも、ごきげんよう」
 私は、子猫にそんな名前を付けた覚えはないのだが。
 もっとも、私は子猫に名前を付けていないので、各が勝手に名付けて呼んでいる状態で、公式名称(なまえ)はまだない。
 そんな我が輩はといえば、朝ご飯のミルクを哺乳びんから一心不乱に飲んでいる。
「随分大きくなったわねぇ」
 生後一ヶ月を数える。
 足腰もしっかりしてきて、あちこち駆けずり回ろうとするやんちゃさんに育ってきた。
 まあ、猫としては、正しい発育なのだが。
 ちなみに、エリザベスの方も順調に回復しており、そろそろ固形物も食べられそうだ。
 あと二週間もすれば、日常の生活に戻れるだろう。
 そんな一年松組の日常は、とあるお方の来訪によって、脆くも崩れ去ることとなった。
「あの、マリア様?」
「様、はやめてよ。で、何?」
 クラスメイトに敬称を付けられても、困ってしまう。
「白薔薇のつぼみがいらっしゃって、貴女を呼んでて」
「えっ?」
 思わぬ称号に、戦慄が走る。
 呼びに来た子は緊張しきりで、それ以上のことは訊けなさそうだった。
 だから、私は恵実留さんと目が合って。
「これはチャンスよ。しっかりアピールしてらっしゃい」
「呼び出しだったら、どうすんのよ? 山百合会の……」
 マリア様のあだ名は、確かに先生方には黙認されているのだが、薔薇さま方──生徒会長たちには定かではない。
 恐れ多くて訊けないのもあるが、リリアン女学園のトップを敵に回して、生きてはいけない。
 君子、危うきに近寄らず、だ。
「長いものには、巻かれなさいよ。ほら」
 待たせるのも悪いから、と、恵実留さん。
「そ、そうね……」
 とはいえ、このまま白薔薇のつぼみのところへ出向くのも、具合が悪い。
「じゃ、よろしく」
「あ、ちょっと、待って」
 そんな恵実留さんの言葉を無視して、子猫を押しつけ席を立つ。
「え? 嘘でしょ? やだ、ちょっとお待ちなさいっ」
 後ろで恵実留さんが何やら喚いているが、気にしない。
 私は、ちょっぴり慌てて白薔薇のつぼみの待つ教室の入口へと向かうのだった。


「お待たせ致しまして、申し訳ございません」
 取り敢えず、頭を下げる。
 足下に、見てはならぬものを見つけてしまったが、今更遅かった。
 みぃみぃと鳴きながら私の上履きにじゃれつく謎の物体を、白薔薇のつぼみにも、すでに見られてしまっていたのだ。
(うわー、着いて来ちゃってるよー)
 とはいえ、このまま放っておくと、教室を脱走するのは目に見えている。
 頭を下げたついでに、それを掴み上げておくことにした。
「貴女が『猫のマリア様』ね?」
 目前の異物をしっかり確認しているにもかかわらず、特に抑揚のない低めの声で、白薔薇のつぼみは仰った。
「不本意ながら、一部の人にはそう呼ばれてますが……」
「今日、お暇なら、薔薇の館へ来て欲しいのだけれど、昼と放課後、どちらが?」
 どうやら、私に拒否権はないようだ。
「じゃあ、放課後で……」
「それじゃあ、お待ちしているわ」
 そう言い残し、白薔薇のつぼみは踵を返した。
「如何かしら? ちゃんとアピール出来て?」
 いつの間にやら、恵実留さんが隣にいた。
 哺乳びんだけを持って……。
「……名乗る必要もなかったわ。二秒で終わったもの」
 ため息混じりにそう言うと、あら残念、と軽く返された。
 ついでに、哺乳びんも。
 彼女の言葉の軽さとは裏腹、私は放課後の呼び出しを思うと、気分がどんよりと重くなった。



to be continued...