猫のマリア様 ~薔薇さま方の猫~ #2

 



 それから、一週間が経った。
 子猫はすぐに目が開いて、順調に育っている。
 親猫──エリザベスと名付けた──も、術後の状態は申し分なく、順調に回復していた。
「まあ、よく頑張ったよな。お前も、コイツらも」
「へへへ……」
 子猫に朝ご飯をあげながら、覇気のないVサインで返す。
 実際、この一週間というもの、ほとんど寝ていないと言っても過言ではない。
 ほぼ二時間おきにミルクを要求する子猫に対応するため、必然的に眠りも浅くなる。
 そこにエリザベスの看病もあり、学校を休んでいたのだ。
 この動物病院に詰めていたとはいえ、家を空けていたわけではない。
 実は、ここは私の叔父──母の弟が経営する動物病院であり、私の下宿先でもあるのだ。
 しかも、手の空いているときに入院患畜の世話をしたり、掃除をしたりと、簡単な雑用をすることで下宿代は無料に。
 学費等の必要経費は、実家から直接学校へ送金されているため、私の手元に来る仕送りは、全額が浮いた金になる。
 とはいえ、パーッと遊びに行くようなことは、しようとは思わないし、する時間もない。
 動物と触れ合っているのが好きだから、暇さえあれば病院にいるからだ。
 自宅からリリアンに通うのは、距離的に難がある。
 新幹線を使えばなんとかなるが、いくらリリアンがお嬢さま学校であるとはいえ、高校生の通学アイテムではない。
 窮屈な家から出たかった私に救いの手を差し伸べたのは、家業を継がずに独立し、家系から縁遠くなった叔父だった。
 両親共に医者の家系に生まれた一人娘だから、生まれたときから医者の男性を娶る──嫁ぐではなく──ことが義務付けられれば、物心ついたら人生嫌にもなるだろう。
 母は、好きで医者になったのに、私は自分の好きなことを何一つさせてもらえずに育ってきた。
 両親を納得させながらも、家から逃げ出すために私が選んだのは、一地方の片田舎でもその名の通った、リリアンへの進学だったのだ。
 高等部の入学試験を余裕でパスし、しかも学年総代の栄誉を勝ち取ったならば、いかに堅物の親でも文句は言えない。
 それどころか、喜んで送り出す始末。
 リリアン様々である。
 そんな、私にとっても楽園となる学校を、仕方がないとはいえ一週間も休んでしまったのだ。
「約束通り、今日から学校行けよ」
「うん。でも……」
 気になるのは、この子猫。
 自力で散歩をしたがるまでに成長したのだが、まだ足腰がしっかりしていないので目が離せないのだ。
「どれ、ちょっと貸してみ」
 叔父は、診察以外には、一切子猫に手を触れなかった。
 私が育てると、宣言したから。
「まあ、大丈夫だろ。連れてけ」
「いいの? 外に出しても」
「どうせメシ以外にゃ寝てるだろ。腹ん中入れてりゃいい」
「ん、そだね。そうする」
 こんなとき、本当にリリアンの制服に感謝する。
 時代錯誤ともいえる、ローウエストのワンピース。
 今時貴重な、膝下丈キープのロングスカート。
 しかもそれがセーラー服ともなれば、懐に余裕がありすぎるくらいで。
 試供品の犬用紙おむつを数枚もらい、一枚を袋状に組み立てて胸元へ押し込む。
 ブラに引っ掛けるように固定すれば、みぞおちの上辺り、ちょうど胸の谷間のアンダーに、育児袋が出来上がる。
 外から見ても、とても子猫が入っているようには見えない。
 真夏には、ちょっとばかり遠慮したいが……。
「それじゃ、いってきます」
 育児袋に子猫を入れ、哺乳びん代わりの注射器や粉ミルクなどの育児用品を入れたポーチも持って、私は家を出る。
「おう、気をつけてな。あまり無理すんなよ?」
「了解。いつも通り、適当に頑張るよ」
 朝の太陽が眩しくて、目に痛い。
 若干溜まった疲労を感じながら、私はバス停へと向かうのだった。


 学校に着いて、真っ先に職員室に行くと、担任の先生が心配そうな顔で迎えてくれた。
「長いこと休んでいて、すみませんでした」
「ええ、もう身体の方はいいの? まだ顔色が悪いけれど、無理してない?」
「いえ、もう大丈夫です」
 そんなに顔色が悪いのだろうか?
 今朝、鏡を見たときは、確かに思いっきり寝不足ですって顔だったけれど。
「気分が悪くなったら、すぐに言うのよ?」
 風邪をこじらせて療養していたことになっていたのだが、どうやら演技をしなくても病み上がりが定着しそうだ。
(先生、ごめんなさい……)
 私は心の中で謝った。
 ただ、マリア様に謝罪してなかった罰(ばち)が当たるだなんて、思いもしなかった。


 教室に入ると、何となく居心地が悪かった。
 高等部からの外部入学生が私しかいないこのクラスでは、入学してからほんの一ヶ月あまりでさえ、何処か疎外感を感じることは多々あったが。
 それにしても、会う人会う人、みんながみんな、よそよそしいというか、まるで腫れ物に触るような感じで。
「あ、あの、お身体の具合は、もうよろしいの?」
「ええ、ありがとう。もうすっかり」
 声を掛けてくれた子に、にっこりと微笑んで返す。
「なら、よろしいのですけれど。あ、あまり無理をなさらないでね……」
 私が風邪をひいたと、先生が伝えていたのだろう。
 朝のH・Rが始まるまでの間に数人が声を掛けてくれたけれど、みな一様に私の身体を心配してくれていた。
 何故か、遠巻きで見守るかのように……。


 マリア様の罰は、その日のお昼休みに当たった。
 子猫にミルクをあげようと、何処か人目のつきにくい場所に移動するために教室を出ようとした矢先のこと。
「貴女、ちょっとよろしくて?」
 お話がありますの、と、クラスでもボス的存在のお嬢さまが詰め寄ってきた。
 彼女の名は、三上(みかみ)恵実留(えみる)。
 幼稚舎から通っている生粋のリリアン生で、そこそこ名の通った会社の社長令嬢。
 学業優秀、容姿端麗。
 曲がったことが大嫌いで、竹を割って青竹踏み健康法にしたような、ある意味わかりやすい性格。
 理がかなわねば先輩にも平気で噛みつくが、その割には情に厚い熱血漢だと、クラスはおろか学園内でも評判の、とてもいい子だ。
 ──端で見ていれば。
 ただ、私としては、あまりの温度差のため、出来ればお近づきになりたくない人の一人ではある。
「貴女は、その……」
 そんな恵実留さんが私に向かって、言い淀む?
「えっと……、何?」
「……ええ、この際、はっきりと言いますわ」
 そう言いつつも、何処か彷徨うような視線だったのは、それだけ言いにくいことなのだろう。
 確かに、一度聞いただけでは理解不能な言葉だったから。
「貴女、援助交際しているの?」
「……は?」
 わ、私が、エンコー? 一瞬、意識が飛んだぞ。
 私は、ぽかんと口を開けることしか出来ず、反論らしい反論をしなかったため、恵実留さんはさらに自分の世界へと入り込むことになった。
「ま、まあ、お相手の方は同じ方のようでしたし、貴女もとても幸せそうに腕を組んだりしていて」
「……え?」
 見てたのか? てか、そのお相手って誰よ?
 私ゃ、彼氏いない歴、年齢と同じなんだけど……。
「でもね」
 急に真顔になる恵実留さんに、私は飲まれた。
「身体だけは、大切になさって」
「……はぁ?」
「だって……、その……、貴女……」
 またも目を泳がして、ばつの悪そうな顔をして。
「あ……、そうよ。赤ちゃんは……無事でしたの?」
 ああ、そういうことか。
 エンコー云々は意味不明だが、きっと叔父さんと食事に行くところでも見られたのだろう。
 そういえば、一度や二度なら、腕を組んだ覚えもある。
 どちらかといえば、ぶら下がっただけなのだが。
 先週の一件も、恵実留さんは見ていたのだろう。
 そして、心配してくれていたのだ。
 あの子たちを。
「ええ、ありがとう。なんとか無事だったわ。母体の方は治療が必要だったけれど」
「そ、それで、学校をお休みされていたのね?」
 急に周りがザワっと沸いて、やっぱりとか声がした。
 気がつけば、クラス全員が私たちの周りを取り囲んでいた。
「え?」
 きょろきょろ辺りを見回して挙動不審になる私に、恵実留さんがずいっと迫ってきた。
 勢いに押され、私は一歩後退する。
「ああ、心配しないで。私たちは、貴女の味方よ」
「あ、ありがとう?」
 思わず返事が疑問形になってしまった。
「外部入学の子が進んでるのは、当然ですもの。でも、私たちは穿った見方や変なやっかみなどはしないわ。だって、私たちは、一年松組のクラスメイトですもの」
「はぁ……」
 また恵実留さんは、何処ぞの世界へと飛び立って行った。
「ですから、秘密は守りますし、何かあったらお手伝いもするわ。出来る範囲内で……ですけれど」
 みな一様に、うんうんと頷いている。
「学校側に知られたら、大変なことになりますもの。でも、私たちは批難しないわ。どんな擁護でもしてみせるから」
 そりゃどんな大事だ?
「ですから、安心してお産みになって。赤ちゃんを」
 出産とは、そりゃ確かに大事だ……って、私かっ?
「あ、あ、あうあうあう……」
「あら、貴女のお腹には、赤ちゃんがいるんでしょ?」
 いや、確かに赤ちゃんはいるから何も間違っていないのだが、何か大きな間違いを感じているのは、私だけなのか?
「あ、あの、ちょっと待って?」
「何ですの?」
「出産……って、私が、ってこと?」
「それ以外に何がありますの? 妊娠なさっているのでしょう?」
 貴女が、と、指を突きつけられる。
「いや、恵実瑠さんがそう思った理由(ワケ)を知りたいんだけど」


 三上恵実留──略してミカエル。
 受胎告知は、ガブリエルの仕事ではなかったか?


「今更、何を……」
 隠さなくてもいいのに、と言いつつ、指を折りつつ恵実留さんが続けた。
「急にしゃがみ込んだと思ったら、お腹を押さえて立ち上がって。歩く姿も痛々しくて、見ていられませんでしたわ」
 そう言う割に、しっかり見てるんじゃん。
「貴女のしゃがんでいた場所には、うっすらと血の跡が。切迫流産……でしたかしら?」
 一応、知識だけはあるのよ、と、恵実留さんは言った。
「その後、バスに乗られて。病院へ行かれたのでしょう?」
 頭に『動物』が付くけれど。
「そして学校を休まれて。しばらくぶりに出席されたと思ったら、酷くやつれたご様子で。心配しましたのよ?」
 本当に流産したかと思って……か。
 ヒドい頭痛に襲われた私は、額に手を当て、項垂れた。
「ほら、まだ本調子じゃないのよ。誰か、彼女に椅子を」
 私を支えようと恵実留さんは手を伸ばしたが、そこは非常に場所が悪かった。
「あ、お腹はダメっ。赤ちゃんが……」
 自分の胸を抱えるようにして、身体を捩ったままの体勢で、私は固まった。
「え、あ、どうすればいいの?」
 つい口走ってしまった言葉に、恵実留さんのみならず、松組全員が狼狽えた。
「赤ちゃんが……」
「赤ちゃんが?」
「……起きちゃった」




to be continued...