Heaven's Gate #14

 


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
「ごきげん……にゃあっ!」
 そして、乙女の中途半端な悲鳴も、澄みきった青空にこだました。
「ごきげんよう、みゃあちゃん。二学期もいい声だね~」
 語尾にハートマークを三つほど付けて、後ろから都に抱きつく紅薔薇さま。
 って、これなんてデジャヴ?
「ふっふっふ……私を止められる者は、このリリアンにはもういない。これでみゃあちゃんに抱きつき放題、舐め回し三昧──てっ!」
「んなワケないでしょう、祐巳さん。変態行為も程々にしないと……」
 伝家の宝刀『脳天唐竹割り』で、祐巳さまを実力行使で止め……切ってない由乃さま。
「行き過ぎて嫌われては、元も子もないでしょう?」
 ふんわりと優しげな笑顔で、ある意味肯定してる志摩子さま。
「本能剥き出しは浅ましいですわよ? 祐巳さま」
「まあまあ、瞳子も落ち着いて」
 瞳子さまが火に油を注ぎ、乃梨子さまはそれ──瞳子さまのみを抑えにかかる。
 その妹たちはといえば、最上級生の薔薇さま方の行為には、手出しはおろか口さえ出せない有様で……。
(ゴメン、みやっち)
(耐えて、みや)
 彼女らの心の呟きが、痛いほどに沁みてきたよ……。
「あらあら、みゃあちゃんの綺麗なが、くしゃくしゃに……」
 誰のせいですかっ……と、心の中で叫んでみる。
 普段なら口に出していただろうが、何故か今日は思いとどまったのだ。
 ちょっぴり気になることがあったから……。
「はい、これ持って」
 祐巳さまの鞄を持たされ、両手がふさがった都は、もうされるがままで。
 髪のリボンを解かれ、ポニーテールをブラシで解かれていく。
 サイドをバックで結ばれて、気がつけば、あら不思議。
「へぇ、みやって結構長かったんだ……」
 可南子さまや由乃さまほどではないが、一応背中まで届いている。
「私と同じくらいかしら?」
 ウェーブかかってる分だけ、伸ばせば志摩子さまの方が若干長いだろう。
「髪はこれからでも伸びるけど、背はね……」
 歌乃ちゃんが、厳しいことを言う。
 確かに可南子さまと同じ髪型にされてしまったが、そこまで同じに……なれるものならなりたいよ。
「じゃ、いこうか」
 祐巳さまに腕を組まれて、そのまま強制連行。
「あ、あの、どちらへ?」
「ん? 薔薇の館に決まってるじゃない」
「な、何故私?」
「これから学園祭の準備始まるから。手伝ってよ」
「そ、それは、やぶさかではありませんが……」
 ハルちゃんが白薔薇のつぼみの妹に収まって、欠員一名あるものの山百合会の人員もまとまってきたと思った矢先、重鎮にも等しい紅薔薇のつぼみが抜けたのだ。
 都が手伝ったところで、人手不足はともかく、経験不足は如何ともしがたい。
「みゃあちゃんが手伝ってくれると、他のつぼみの妹が動きやすくなるからね」
 徹底的に使い回すよと、祐巳さまは笑った。
 でも、さっき気になったことが、今も都は気になった。
 だから、つい口を滑らせてしまったのだ。
 祐巳さまの瞳の奥に、寂しげな何かを見てしまったから。
「祐巳さま……、可南子さまとは連絡を取っていらっしゃいますか?」
「いや、みゃあちゃんと一緒に逢って以来、全然だけど?」
 一変、けろっとした表情で祐巳さまは言った。
「え? ど、どうして?」
 逆に都が狼狽えた。
 一緒に逢ったといったら、一学期の終業式。
 夏休み中──約一ヶ月半もの間、祐巳さまは可南子さまの声を聞いていないことになる。
 それは都も同じなのだが、二人の絆というか、関係の密度が違うし……。
「だって、みゃあちゃんも可南子の声を聞いてないでしょ? 私ばかり聞いてちゃズルいしね」
 そう、あっけらかんとした表情で、祐巳さまは仰ったのだった。


「あれ? 可南子さま──」
「──にしては、丈がないね」
「髪の長さもね──」
 言いたい放題のクラスメイトたち。
「あのねぇ……」
 朝の一件、都は口を開いた。
「紅薔薇さま、ご乱心──ってわけ?」
「そうじゃないんだけど……なんて言っていいか……」
 適当な言葉を探すヒマは、都にはなかった。
「で、都さん。ズバリ聞くけど、都さんは『紅薔薇のつぼみ』になるの?」
 新聞部員の地野京華さんが、マイク代わりにシャーペンを突きつけてきたのだ。
「それはない、ありえないよ……」
 都は否定するも、京華さんの追撃は絶えない。
「でも、紅薔薇さまの都さんへの可愛がりようって、尋常じゃなくない?」
「そうそう、可南子さまより可愛がられてるよねぇ」
「猫可愛がりって感じで?」
 誰かが上手いことを言った……じゃなくって。
「都さんって、可南子さまに憧れていたじゃない? ああなりたいって」
 確かに都は常々そう思っていたが、可南子さまの『ように』なりたいのであって、可南子さまに成り代わりたいわけではない。
 それに、憧れて『いた』のではなく、今現在も憧れて『いる』のだ。
「でも、祐巳さまの妹は可南子さまだよ。他の誰に取って代われるものじゃないよ」
 都の言葉に、京華さんは更に追い打ちをかけてくる。
「その可南子さま亡き今、最有力候補は都さんだよ?」
「てか、可南子さま、亡くなったワケじゃないし……」
 縁起でもない。
「仮によ? 紅薔薇さまに直訴されたとしたら、受ける?」
「お断りするわ」
 これは即答。
 もっとも、祐巳さまが都にそんなことを頼みに来るなんて、ありえない。
「じゃあ、可南子さまに頼まれたとしたら? 是非私の代わりに~って」
「そ、それは……」
 思わず言い淀んでしまった。
 可南子さまの頼みが断れる都ではないが、その頼みが可南子さま自身の地位や存在を脅かすものであった場合、それを実行出来る自信が都にはない。
 でも、思わぬところから助け船は来た。
「可南子は、そんなこと言わないよ? あの子の願いは別だから」
「ですよねぇ。可南子は……って、呼び捨て?」
 えーっ! と一同、一歩下がる。
 何故か輪の中に祐巳さまが紛れ込んでいたのだ。
「ゆ、祐巳さま? いつの間に……」
「やほ、みゃあちゃん。さっき言い忘れてたけど、今日から放課後は忙しくなるから覚悟してね。それから親御さんってか、お姉さんには許可取っといたから」
 都が学園祭の準備に駆り出されることは、これで確定した。
「ろ、紅薔薇さまっ。その、可南子さまの願いとは、一体何なんですか?」
 京華さんの記者魂が炸裂し、祐巳さまに突貫取材を試みる……が。
「可南子が自分の口から言ってないこと、私が言えるわけないじゃない」
 と、祐巳さまは笑って仰り、敢えなく玉砕。
「あ、あの、紅薔薇さま?」
「ん、何?」
 退室しようとする祐巳さまを呼び止めた、別の勇者。
「どうして都さんにお手伝いを? 他の方では……」
「うん、ぶっちゃけ誰でもいいんだけどね」
 と、ホントにぶっちゃけた。
「それなら私が──」
「あ、でも、条件はあるよ?」
 立候補者の宣言を遮って、祐巳さまは続けた。
「一つ、私たち薔薇さま三人に、面と向かってNOと言えること」
『えっ?』
 クラスメイトの視線が、都に集中した。
「み、都さん? 貴女、恐れ多くも薔薇さま方に……」
 以前、山百合会のお手伝いを断った件が当てはまるから、都はこくりと頷いた。
 そんな都に、祐巳さまはにっこり笑って続けた。
「一つ、私たち山百合会幹部を前に、冷静でいられること。自分をしっかり持ってなきゃダメね」
 ミーハー気分でキャーキャー言って騒いでたり、逆におどおどしてたら仕事にならない。
「最後に、あの二人を引き止めることが出来ること、ね。言動共に」
 そう言って、祐巳さまは歌乃ちゃんとハルちゃんに視線を送る。
 クラスメイトたちも釣られて二人を見て、そして納得したようだ。
「人手が多く必要になるのは、本番直前だから。それまではクラスや部活の出し物に専念していた方がいいよ。チケット制とはいえ、一般客の方々も大勢いらっしゃるのだから、ね」
 ウインク一つでみんなを骨抜きにして、そして祐巳さまは教室を出て行かれた。


 学園祭の準備は、薔薇さま主導で行われる──のは建前で、実際に動き回るのはつぼみたちだ。
 つぼみたちが次世代の薔薇さまを担うべき行動力を生徒たちに見せつける、実質的なお披露目の面を持つのだ。
 もちろん最終的な取り纏めは、山百合会の最終責任者たる薔薇さま方が行うが。
 では、今年のような、黄薔薇のつぼみ──瞳子さまは、ある意味文化祭の華である演劇部に取られ、紅薔薇のつぼみ──可南子さまは校内にいらっしゃらない、実質動けるのが白薔薇のつぼみ──乃梨子さまただ一人の場合、どうすればいいのか?
 答えは簡単。
 自分が動けなければ、人を動かせばいい。
 てなワケで、今年のつぼみは『統率力』を見せつけるべく、その妹たちを動員した。
 晴れて山百合会の実働部員となった歌乃ちゃんハルちゃんの『つぼみの妹』コンビに、都がサポートとして着くことになった……はずなのだが。
「じゃあ、次はバスケ部ね。都ちゃんとハルでお願い。次の演劇部は、歌乃ちゃんと都ちゃんで。美術部には……私が行くから、都ちゃん着いてきて」
 と、乃梨子さまの指示にことごとく都の名前が入っていたのだ。
「へぇ、この子がねぇ──」
「案外、普通なのねぇ」
 とか、行った先々で値踏みされるのは勘弁してもらいたいが、仕方のないことなのだろう。
 もっとも、二年生がメインの運動部とか、特にバスケ部辺りでは、既に都の認識が確定されていたのには驚いたのだが。
「可南子さんも、いい妹が出来てよかったわね」
「いえ、私は可南子さまの妹ではありませんので……」
 都が否定しても聞き入れてくれなくて、話は更に加速する。
「またまたぁ。可南子さんがあれほど可愛がる下級生なんて、他にいないし」
「そうそう。謙虚もいいけど、あんまり控えめだと取られちゃうわよ?」
 都に忠告らしき助言をする先輩さん、横からツッコまれる。
「誰に?」
「……想像つかないわね」
「だったら言いなさんな」
 等々、勝手に完結されてしまって。
「まあ、もう少しの辛抱だからね? 都さん」
「えっと……何が、でしょう?」
 きょとんとする都に、バスケ部員さんたちが逆に唖然として。
「え? 可南子さんから聞いてないの?」
「何のことやら……可南子さまとは、お電話頂くことすらありませんが……」
「あー、紅薔薇さまからも?」
 その言葉に、都はハルちゃんと顔を見合わせ、バスケ部員のみなさまもそれぞれ顔を見合わせた。
「あ……私、マズいこと言っちゃったかな?」
「祐巳さま、口止めされているのかしら?」
「幸い、都さんはわかっていらっしゃらないご様子だから──」
「て、てなワケで、私たちはそろそろ練習に戻りますね?」
「あ、逃げた……」
「まてー、逃げるなー」
 最後の方はほとんど棒読みで、バスケ部は練習を再開した。
「何だったんだろうね?」
「さぁ……?」
 残された都とハルちゃんは、やっぱりその場で顔を見合わせるのだった。


 その夜、都は寝つけずにいた。
 仕方なしにキッチンでお湯を沸かしていると、後ろから声がした。
「都? こんな夜更けに何やってるの?」
「お姉ちゃん?」
 都は、ここ一週間の出来事を話した。
「──とにかく忙しかったよ。一般生徒にさせる仕事じゃないよね?」
「なるほどね。当代の紅薔薇さま、なかなかのやり手ね」
 からから笑って、お姉ちゃんが言う。
「確かに祐巳さまは凄いけれど、やり手って……」
 そういう表現で合っているのだろうか?
 まあ、薔薇さま経験者のお姉ちゃんが感じることは、一般生徒の都と違っていても不思議じゃないが。
「それも薔薇さま特有の厳しさでもあり、優しさでもあるのよ」
「そんなもんかなぁ?」
 愛用のマグカップを両手に、都は返事をした。
 紅茶でも飲もうと思っていたが、お姉ちゃんがココアを淹れてくれた。
「まあ、上級生として……というより、姉としてかしら? でも、こうしてみんなに大切にしてもらって、都は幸せ者ね」
 優しくて頼りになる友人も先輩も、いつも近くにいてくれている。
 最も憧れる先輩は……もとより近寄りがたいお人だったし。
「可南子さんがいなくても、落ち込むことがなくなったしね?」
「お、お姉ちゃん? キツいよ、それ……」
 とはいうものの、確かに食事が喉を通らないということもなくなり、可南子さまの名前を聞いても気が沈むことはなくなっていた。
 むしろ、そんなヒマがないといった方が正しい。
 あとは都の行動が可南子さまの名を穢すことのないように気を配るのが精一杯で、自分のことまで気が回らないのだ。
「でも都、最近貫禄ついてきたよ。なんか、こう……懐かしいわね。元気かしら、あの子たち……」
 遠い目をするお姉ちゃん。
「お姉ちゃん?」
「あ、ゴメン。ちょっと鮎美たちのことを思い出して。つい先日会ったばかりだというのにね……」
「鮎美さん……たち?」
「鮎美に蓉子ちゃん、沙紀に江利子ちゃん、真冬に聖ちゃん。若芽が育ってつぼみになって、やがて花咲いていく。そんな成長とともについてくる貫禄が、都にも見えたから」
 そう言って、お姉ちゃんが都を背後から抱きしめる。
 こんな状況では実の姉妹とはいえ、面と向かうと恥ずかしい。
 でも背中に感じるお姉ちゃんの温もりが、つい都の口を緩めてしまった。
「ねえ、お姉ちゃん……。私なんかが『紅薔薇のつぼみの妹』になれる……なってもいいのかなぁ?」
「その『なんか』って言うの、止めなさい」
 お姉ちゃんの腕に力が入る。
 痛くはないが、ちょっぴり窮屈。
「都は私の自慢の妹、誰が貶めるのも赦さないわ。たとえそれが都自身でもね」
「あ……うん、ごめんなさい」
「よろしい。で、都は将来薔薇の名を継ぐことに不安を感じてるわけ?」
 お姉ちゃんの腕の中で、都はこくりと頷いた。
「最初から完璧に出来る者なんて存在しないわ。もし、都がその気になって頑張ったとしたら……」
「頑張ったとしたら?」
「都らしい──いえ、都にしか出来ない、立派な薔薇さまになれるわよ」
「出来る……かなぁ?」
「一人で全部する必要はないもの。自分に出来ないことは出来る人間に任せるのも、一つの手よ。むしろトップに立つ者、如何に人を使うか。これに尽きるわね」
 在任中ミス・パーフェクトと称された伝説の紅薔薇さまの言葉とは、とても思えないのだが……。
「あとは、周りをよく見ることね。見ていればわかるわ。色々と、ね」
 都に足りないのは自信だけ。それさえあれば何だって出来るから自信を持って、とお姉ちゃんは言ってくれた。
 なら都が自信を持ったら紅薔薇のつぼみの妹に、可南子さまの妹になれるの?
 そう訊ねてみたところ、お姉ちゃんは意味ありげに笑って言った。
「当たって砕けなさい。もっとも、可南子さんが都の嫌がることをするとは思えないけれど?」
 確かに当たってみなければ、砕けることすら出来ない。
「じゃあ、今度可南子さまにお逢い出来たら、お願いしてみるよ……」
 お姉ちゃんが都の頭をガシガシと、まるでお義兄さんがするように撫で回す。
「うんうん、それでこそ私の妹よ。頑張りなさい」
 上機嫌のお姉ちゃんの声に釣られて、都も顔を上げてみる。
 東の空には、綺麗な朝焼けが広がっていた。
 この空の下の何処かにいる可南子さまに、いつか逢えるといいな。
 その時にはもう少しだけ自信を持った都でいたいと、そう思った。


 それから、都は……いや、都たちは脇目もふらずに突っ走ってきた。
 何処からもクレームが出ることはなかったのは、幸いといったところか。
 そんな矢先、薔薇の館に招集がかかった。
「さて、みなさまの働きで、今年も学園祭を開催する目処が立ちました」
「……って、ほとんど何もしていないではありませんか。お姉さま」
 いきなり口を開いた由乃さまに、瞳子さまが噛みつく。
「そう言う瞳子こそ、何かした?」
「ま、まあまあ、由乃さまも瞳子も落ち着いて」
 紅茶のカップを持ったまま立ち上がる二人を、乃梨子さまが止めた。
「祐巳さまも、何か言って下さいよ。こんな時だけ静観してないで」
「じゃあ、立ったついでに──」
 祐巳さまが席を立ち、続いて志摩子さまが。
 残った一年生の都たちも、慌てて立ち上がる。
「由乃さんじゃないけれど、山百合会としての準備はこれで一段落。あとは当日を残すのみ……かな?」
「そうね、急な変更がなければ予定通りね」
 アイコンタクトで、志摩子さまがフォローした。
「じゃ、乾杯しましょう。紅茶だけど。みんなお疲れさま」
『乾杯!』
 みんなでカップを掲げて、そして席に着く。
 さすがにカップを打ち鳴らすことはしなかった。
「さて、三日後には体育祭。その後二年生は修学旅行か」
「修学旅行といったら、アレよね……」
 祐巳さまは視線を虚空に向けた。
「アレって……アレ?」
 由乃さまは目を剥いて身を乗り出す。
「まさか、……もしかしてアレのことかしら?」
 志摩子さまは口に手を添え、上品な驚きの表情を示す。
「……何ですか、そのアレって」
 そんな三年生たちとは裏腹、これから修学旅行へと向かう当事者の二年生──瞳子さまや乃梨子さまは、都たちと同じく意味不明な顔をしていた。
「話せば長くなるんだけどね……」
「じゃあ、短くお願いします。三行くらいで」
 にべもなく言い放つ乃梨子さまに、祐巳さまは苦笑した。
「うん、じゃあ、簡単に言うけど。私たちが行った去年の修学旅行って、ローマとフィレンツェだったんだけどね。あ、ヴァチカンも行ったかな」
 うわ、海外……と声を失うハルちゃん。
「ええ、今年も同じです。それが?」
 対照的に、あっさりと続きを促す瞳子さま。
「お姉さまに頼まれたのよ。『ローマ饅頭かフィレンツェ煎餅買ってきて』って」
「で、買ったんですか? そんなもの」
 乃梨子さまの間の手も、温度が低い。
「さ、祥子さまが仰ったんですの? そんなこと……」
 食いつきどころが違うものの、驚愕する瞳子さま。
「そう、結局見つからなくて、諦めたんだけど……」
「当然ですよ、祐巳さま。イタリアに饅頭や煎餅なんてあるわけないじゃないですか。担がれたんですよ、それ」
 乃梨子さまの言うことも頷ける。
 都だってそう思うのだから。
「うん、帰ってきて、お姉さまにもそう言われたんだ。でも……ねぇ……」
 またも祐巳さまは、虚空に目を向ける。
「フィレンツェの土産屋にいたオウムが言ったんだ。『フィレンツェ煎餅』って」
「まさか……」
 由乃さまの声に、呆れ顔で乃梨子さまは志摩子さまに向くものの、当の志摩子さまは驚きの顔を未だに隠せないでいた。
「それ『ごきげんよう』って挨拶するオウムでしょ? 当時藤組でも噂になっていたわ。現にそこのお土産屋さんで、みんな買い物をしていたし……」
『ええっ?!』
 志摩子さまの言葉に、薔薇の館が震撼した。
「し、志摩子さん、それマジっすか?」
「乃梨子、言葉がスゴいわよ……」
 苦笑する志摩子さま。
 どうやら日本人観光客向けにと教え込ませたのだろうが、それにしても……。
「無理は言わないけど、出来れば探して欲しいんだ。せめて煎餅だけでも」
 自分には出来なかったからと、ちょっぴり寂しげに祐巳さまは言った。
「ま、まあ、そういうことなら……」
「え、ええ。確約は出来ませんが、出来る限り探してみますわ」
 つぼみ二人が神妙に答えた。
 冗談みたいな話が、一大ミッションになった瞬間だった。
「さて、それはそれとして」
 一変、由乃さまが軽く場を流した。
「もう、余韻もへったくれもないんですから。お姉さまったら……」
 むくれる瞳子さまに微笑んだ由乃さまは、その微笑みを今度は都に向けてきた。
「都ちゃん、よく頑張ってくれたよね。おかげでホントに助かった」
「い、いえ、私は出来ることをしただけですので……その……」
 頭を下げる由乃さまに都は狼狽えたが、それで容赦する由乃さまではない。
「だから、そんな都ちゃんに、私からプレゼントね」
 懐(?)から封筒を取り出し、それを都に差し出した。
「そんな、頂けませんよ……」
「でも、無理にでももらってもらうから。拒否権なしね」
 本当に無理矢理押しつけてくる。
 こうなると梃子でも退かない由乃さまだから、都の取れる行動は限られる。
「じ、じゃあ、遠慮なく頂きます。ありがとうございます、由乃さま」
 都が頭を下げると、由乃さまは満足そうな笑顔を見せるのだった。


 封筒の中には交通機関のプリペイドカードと、首から提げる紐のついた身分証のような名刺サイズのカード、それにメモが一枚入っていた。
『明日午前九時にここに来るのも来ないのも自由』
 などと書かれていては行かない選択肢もないし、最初から自由などない。
「由乃さま……何考えてらっしゃるんだか……」
 その日は幸いなことに日曜日。
 都のためにと用意してくれた物だし、由乃さまの我が儘に付き合うのも悪くはないと、都は指定された場所へと向かうのだった。
 着いたところは、隣県の県庁所在地にある市営の体育館。
 何かのコンサートでもあるのか、黒山の人だかりで建物のそばには近寄れない。
 さてどうするかと思ったところ、都のケータイの着信音が鳴った。
「もしもし、歌乃ちゃん?」
『残念ながら、私だけど』
「由乃さま? どうして?」
 着信は歌乃ちゃんのケータイになっていた。
『どうしてって、これ歌乃のケータイだから。私、都ちゃんの番号知らないし』
 確かに……。
『メアドは知ってるけど、すぐ見てくれるとは限らないしね。で、今何処?』
 相変わらず問答無用なお方だ。
「体育館の前ですけど……中に入れそうもないですね」
『ん、外周路ね。何着てる?』
「制服です。校則で──」
 決まっているので……とは続けられなかった。
 いきなり通話が切れたのだ。
 途方に暮れること一〇分余り。
「みゃっ!」
 いきなり手を引かれた。
「やっと見つけた……」
 現れたのは、乃梨子さま……何故?
「……ったく、由乃さまもわざわざ現地集合になんかしなきゃいいのに」
 ぶつぶつ言いながらケータイに向かって指示を飛ばす。
「もしもし、私。見つかったから戻っていいよ。うん、よろしく」
 電話を切って、乃梨子さまは都に向かうと、何故か満足げな顔をした。
「あの、ごきげんよう、乃梨子さま。ご挨拶遅れて申し訳ありません」
「ああ、堅い挨拶は抜きで。学校じゃないしね」
 とはいえ、乃梨子さまも制服を着ていらっしゃって。
 さすがにリリアンを代表する山百合会幹部の一員である。
「さて、行こうか」
「どちらへ?」
「中に。みんないるし」
 人を掻き分け、正面玄関──脇の通用口でパスカードを見せて中に入る。
「乃梨子さま? 一体ここで何を……」
 通路を抜けて視界が広がる。
 階上の観客席は立錐の余地もないほど超満員。
 フロアの中央には……バスケットコート?
 手を引かれたままチームベンチ裏の関係者席に辿り着くと、いかにも関係者って感じの背広の小父さんの群れの中に、見知った制服の見知った人たちがいた。
「やほ、みゃあちゃん。ごきげんよう」
「ごきげんよう、祐巳さま、みなさまも……」
 山百合会幹部が勢揃いしていた。
 これで、可南子さまがいたら……。
「ん? 可南子も来るよ? もう少ししたら……ね」
 祐巳さま、エスパー?
 ……じゃなくて。
 都の考えは、場内アナウンスに掻き消された。
『只今より第XX回国民体育大会バスケットボール、少年女子決勝戦を行います』
 国体バスケ? 何がどうして?
『白、東京代表。黒、愛知代表。両チーム選手入場です』
 考えどころじゃなく、思考そのものが掻き消された。
 白いユニフォームを着た人の中に、都が憧れて、逢いたくて焦がれてたまらなかった人を見つけてしまったから。
 東京の十四番を背負った、可南子さまを──。


à suivre...