Heaven's Gate Epilogue

 


 試合終了直後に表彰式があり、その場で可南子さまは堂々と胸を張ってメダルを受け取った。
 今、可南子さまの胸にあるのは、誇らしげに燦然と輝く銀色のメダルと、そして泣きじゃくる都。
「何も貴女が……そこまで泣かなくてもいいのに……」
「だって、だって……」
 声を上げて泣く都を黙らせるかのように、可南子さまは力強く抱きしめた。
「汗臭いのは我慢なさい。もう……」
 可南子さまの声に怒りの色が見られないのが、せめてもの救いか。
「申し訳ありません、わ、私……」
 未だ泣き止まぬ都を叱るわけでもなく、可南子さまは宥めるように頭を撫でながら、あろう事か逆に謝りだした。
「ごめんなさいね。もう少しいいところを見せられると、よかったんだけれど」
「そんな、可南子さまは素敵でした。でも……私、悔しくて……」
「そう……」
 そして、どれだけ時が経っただろう。
 永遠かもしれないし、一瞬かもしれない。
「お疲れ、可南子。残念だったね」
「ああ、お姉さま。ごきげんよう」
 祐巳さまが可南子さまを労いに来た。
 都は可南子さまの胸から離れようとして──微塵も動かない可南子さまの腕から離れられずにいた。
「もう少し時間があれば……。でも、精一杯やりましたので」
「そう。可南子が納得していれば、それでいいよ。代わりに泣いてくれたしね?」
「ええ、全く。でも嬉しいですね、こうして……」
 と、言葉を止める可南子さま。
 数名の近寄る足音が、都の耳にも入った。
「ごきげんよう、お疲れさま。惜しかったね……てか、よく健闘したと言っていいのかな?」
「ごきげんよう、由乃さま。みなさんも……。相変わらず愛知は強いです。今年は比較的弱くなってると言われていましたが、いざ対戦してみると……」
 苦笑したのだろう、可南子さまの溜め息が漏れた。
 実際、試合はほんの一点差だった。
 前半、圧倒的な差をつけられ、開始早々に負けを覚悟したが、後半第三クォーターの途中から可南子さまが出場して以来、一気に挽回を果たしたのだ。
 そしてあと一点差まで迫ったところで、無情にもタイムアップ。
 もう少し早く可南子さまが出ていれば……どうして可南子さまがスターティングメンバーじゃなかったんだろうか。
 そうしたら、もっと有利な試合展開になっただろうに。
 そう思ったら、都の涙が止まらなくなったのだ。
「しかし、よく関係者席に入れましたね? チケットとかどうされたんです?」
 可南子さまの問いに答えたのは、由乃さまだった。
「ああ、それはコネ使ったのよ。令ちゃんちが剣道の道場やってるでしょ? で、伯父さんに都の連盟をつついてもらって。案外お偉いさんだったみたいでね」
 長く心臓病を患っていや由乃さまだから、家族のみなさんは由乃さまには甘いらしい。
 もっとも、由乃さまもそれを負担に思っていて滅多に甘えることをしなかったというが、だからこそ『たまの』甘えには、特にスポーツ関係には滅法弱く、一家総出で箱根駅伝を見物に行ったこともあるそうで。
 ともかく、剣道連盟の偉いさんである伯父さまにバスケ連盟に働きかけてもらって、チケットを融通してもらったそうだ。
 理由を聞いて納得されたのか、可南子さまはそれ以上の質問をしなかった。
「みやったら、気持ちよさそうね」
「あら、あのくらいのご褒美は当然じゃなくて? 都さん、頑張ってたのだから」
 くすりとわらう歌乃ちゃんに、瞳子さまが言う。
「じゃあ、瞳子も歌乃にやってあげなよ。歌乃も頑張ってんだし」
 と、由乃さまが輪をかける。
「え? あ、そ、そうね、そうよね。じゃあ、歌乃……」
「は、はい?」
 まんまとというか、乗せられた瞳子さまに、歌乃ちゃんも緊張して答える。
「あの、あ、あとでね」
「おいおい、そこは紅薔薇姉妹を見習って、ガバッと行かなきゃ」
「こんな人目につくところで、そんなことは出来ませんわ」
 確かに瞳子さまの言う通りなのだが、ならば都はどうなのか?
 もうここが、可南子さまの腕の中が都の居場所と勘違いしてしまいそうな、この感覚というか、周りのみんなも止めないし、ある意味当然的な雰囲気を醸し出して下さってまして?
 ダメだ、なんか思考が溶けてきた。
 その溶けた思考が一瞬にして凍結したのは、可南子さまの胸越しに伝わる衝撃──可南子さまの背中をぽんと叩いたと同時に発せられた、聞き覚えのない女性の声だった。
「お疲れ。見てたよ、残念だったね」


「あの、貴女は……もしや……」
 何故か固まる由乃さま。
 黒いジャージ姿の女性の乱入に驚いたわけでもなさそうだが。
「あれ? あっちに」
「お、いたいた」
 同じジャージの人があと二人ほど加わった。
 一七〇センチを超える長身の二名と、一六〇センチほどの一名。
「都」
「みゃあちゃん、こっちへ」
 阿吽の呼吸で都を祐巳さまに手渡し、可南子さまはその女性たちに向いた。
「ごきげんよう。私に何か?」
「ごきげんよう? ああ、こんちは」
 可南子さまの挨拶に面食らった彼女、一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに復活。
「悪いね、友達と話してる最中、声かけて。アンタにどうしても言いたいことあってさ」
「お伺い致します。何でしょうか?」
「んー、どうも調子狂うね……ま、いいか」
 ポリポリと頭を掻きながら、彼女は可南子さまに言い放った。
「あのさ、八分の三でファウル三つは多すぎ」
 出場時間に対するファウル数が多すぎると、彼女は言った。
 五ファウルで退場だから、確かに彼女の言う通り。
 うっと声が詰まる可南子さま。
 逆に、何をっと都は彼女を睨みつけた。
「……都?」
「……はい」
 意気消沈。
「……妹さん? 元気いいね」
「ええ、お陰さまで」
 重要な語句を、さらりと流す可南子さま。
「だからさ、もっとラクに跳ばなきゃ。あれだけリバ取ってんだから、手技はいいの持ってるんだ。あとは足技覚えなきゃ」
「足技、ですか?」
「そう。例えばサンキュー二分の黒のショットでさ、三〇度辺りで跳んだでしょ?」
 第三クォーターの残り二分、黒チームのシュート時の状況を、彼女は克明に言い表した。
「ええ、確かに。細かいところまで覚えていらっしゃいますね?」
「見てたから。で、あのとき、こう立ったでしょ? そしたら、左足をこう相手の前に入れるんよ。で、せーので跳んでみ? せーのっ」
「えっ……」
 可南子さまより五センチほど低い彼女が、可南子さまより高く跳ぶ……いや、可南子さまが全然跳べていなかった。
「ね、リバはポジショニングで半分以上決まるから。早く覚えてこっちに来なよ。一緒にもっと背の高いヤツ蹴散らしに行こう」
「一緒に……ですか?」
 彼女の言葉に、今度は可南子さまが面食らう。
「アンタ、細川可南子だろ? 今度のジュニア強化に入ったってさ」
『え?』
 驚く都たちとは逆に、黒ジャージの人たちは頭を抱えていた。
「メグ、そういうことは協会の偉いさんが勿体ぶって言いに来るんだよ。わたしらが横流しでネタバレしちゃダメだって」
「ゴメンね。メグって、悪い子じゃないんだよ。ちょっとアレだけど……」
「おぉい、おユキ先輩も香澄も。それじゃあたしがイタい子みたいじゃん?」
「おまえが『子』いうトシか」
「メグ、プロなんだからさ、一応……」
「一応って何だよ、香澄。あたしゃこれでもプロ四年目なんだ──」
 この訳のわからない痴話喧嘩(?)を止めたのは、顔を真っ赤にして色紙を差し出す由乃さまだった。
「あの、サイン頂けませんか? 桜沢(おうさわ)選手、柚原選手、山咲選手」


 見た目とは裏腹なスポーツ大好き少女の由乃さまによると、この黒ジャージの人たちは女子バスケ日本代表の、この夏に行われたオリンピックで金メダルを取った選手たちなのだそうだ。
 それも二度目の金メダルで日本中が大騒ぎしていたそうで、この体育館にも彼女たちを一目見ようと大勢の人が押しかけたらしい。
 もっとも、入場制限のために中に入れない人の方が多いらしいのだが。
 道理で外に人が多かったわけだ。
「で、柚原深雪選手はラビッツ東京、桜沢恵美選手はオルキヌス名古屋で、ともにプロ選手としてWBJリーグで活躍されているのよ」
「あはは、ご丁寧な説明、ありがとう」
 一通り可南子さまへのレクチャーが済んだ桜沢選手は、みんなを連れてミーティングルームとおぼしき場所で座談会を始めた。
「で、山咲香澄選手は……」
 何故か口ごもる由乃さま。
「まあ、香澄の消息は一般紙には載らないからねぇ」
「消息って、おユキ先輩……」
「ほれ、説明してあげな。この可愛らしいファンたちに」
 おユキと呼ばれた柚原選手は、彼女たちの高校時代の先輩らしい。
 卒業しても呼び名が抜けないのは、お姉ちゃんたちと似ていて共感が持てる。
「ああ、あたし大学行ってたから。六月に卒業したばかりよ」
『六月に?』
「アメリカ行ってて。で、卒業と同時に入籍してりゃ、日本に帰って山咲の名前探しても見つからないワケだよな。ホント、上手いことやりやがって……」
 メグ──桜沢選手のぼやきにも似た一言に、一同騒然となった。
『入籍~?!』
「あはは……だから、山咲じゃなくて……黒木です、黒木香澄」
 自身の名を言う山咲改め黒木選手、真っ赤な顔をして照れていた。
 ぱっと見た目には、祐巳さまや由乃さまと同世代にしか見えないけれど、大学卒業して人妻って、お姉ちゃんと同い年か……見えないな。うん。
「ああ、でも今のうちに香澄のサインはもらっといた方がいいな」
 あと二名いたメダリストの一人、小比類巻選手が口を開く。
「そうそう。香澄クンってば、この試合終わったらアメリカ帰っちゃうし」
 もう一名のメダリスト、錦織選手が呼応する。
 日本代表のうち五人が同じ高校で、しかも同世代でプレイしていたというから驚きである。
 現在の所属は違うものの、国体では出身県でチームが組めるから、久しぶりにみんなが集って気分は同窓会だとか。
 どことなく山百合会のような雰囲気にも似て、居心地がよかったりした。
「帰っちゃうって、どうしてです?」
 今が日本に『帰ってきた』のでは?
 同じ疑問を由乃さまも抱いていたようだ。
「あたし、向こうのチーム入ることになったから」
「てか、もう試合出てるじゃん。今シーズンオフっていうか、ファイナル前の小休止でしょ? 日本じゃTV流してくれないけど」
 野球でいうなら日本シリーズ。
 日本一ならぬ全米ナンバーワンを決めるシリーズ戦だ。
「う~ん、それより結婚会見かなぁ? ファイナル終わったら、今度は貴之さんのシーズン始まるし。その前にこっちで挙式の予定だし……」
「てか、アンタまだ旦那を名前で呼んでるの?」
「え? でも『先輩』は取れたよ?」
「永遠に恋人やってろ、このバ香澄が」
「メグ……悪い子じゃないんだけどな……口を除けば」
 そんな日米プロ選手の会話に割って入るのは、やっぱり由乃さまで。
「あのー、姓が黒木で名が貴之って、山咲……黒木香澄選手の旦那さまって、あのNBAの“Krow”タカ・黒木選手ですか?」
「えー? クロちゃん、そんな大層なあだ名ついてんの?」
 日本が誇る世界のバスケプレイヤーが、ちゃん付けされてるとは……。
「まあ、みんな高校ん時とそんなに変わりないしね。香澄とクロちゃんだって、出会ったときは単なる高校生だったし?」
「いや、あたしの恋バナよりも、今日の主役は細川さんでしょ?」
 香澄選手の(必死な)声に、全員の視線が可南子さまに向く。
 正直、他人の恋バナ聞くのは、案外面白い。
 もっとも本人が語るんじゃなくて、第三者が語ってこそ、ではあるが。
「じゃあさ、妹ちゃんはバスケやんないの?」
「へ?」
 何が『じゃあ』なのかわからないが、急に話が都に振られた。
 可南子さまの妹って、都が?
 そういえば、バスケしてるときの可南子さまは、その艶やかな長い髪をポニーテールに纏めているけれど……奇しくも都と同じ髪型になっていたり。
 ──だからか。
「色々と観察してるみたいで。いいポイントガードになりそうだけどね」
 きょろきょろしてたの、バレてたみたい。
「あ、あの、私は可南子さまと違って、運動神経皆無ですから──」
『可南子さまぁ~?!』
 一同が都を凝視した。
 何かマズいこと言ったかな? と思って見回すと、歌乃ちゃんハルちゃんは都と同じくきょとんとしてたけど、つぼみの二年生は何故か頭を抱えていた……。
「ああ、それは私たちの通うリリアン女学園の校風で──」
 助け船を出してくれたのは、紅薔薇祐巳さま。
 上級生には名前にさまづけで呼ぶとか姉妹制度とか、簡潔に説明してくれた。
「完全無欠のお嬢さま学校かぁ……。伝統ある女子校ともなると、スゴい校風なのねぇ。制服もレトロちっくで、アンティークドールみたいだし」
「ま、あたしらにゃムリだ。受けた屈辱は十倍返し、気にいらん上級生は実力で叩き潰してここまでやって来たんだし」
「そりゃアンタだけだよ、メグ……」
「いや、後半はアンタだってば、香澄サン……」
 か、香澄選手、一体高校で何やってきたんだろう? 気になる……。
「よし、じゃあこれからは、わたしのことをお姉さまと呼ぶように」
「あ、おユキが壊れた……」
「イヤだよ、そんな暴君、姉にするの……」
 錦織選手に小比類巻選手が聞こえよがしに呟いて、みんな大爆笑。
「そういやぁ、バスケで細川って、どこかで聞いたような……」
「ああ、以前全日本にいた人だわ。私らがミニバスやってた頃だから、かれこれ十数年前?」
「お父さんだとしたら年代合うけど、その人新潟じゃなかった? こっちの細川さんは東京でしょ?」
「新潟っていえば、この夏、アートレックスに女子高生が武者修行かましたらしいよ」
「アートレックス新潟って男子プロのチームじゃん? しかも一番荒いとこ。その子、生きてるの?」
「最初はへろへろだったけど、一週間もしないうちに当たり負けしなくなったってさ。女子にしては背が高くて髪が長い子だったらしいけど……」
『まさか……ねぇ?』
 一同の視線を一手に受けた可南子さま、居心地悪そうにしていた。
「まあ、珍しくメグが気に入って指導しようとした逸材だからなぁ」
 柚原選手の声に、一同が納得した。
 オリンピックで全選手中リバウンド取得率トップの、世界のリバウンド女王と称された桜沢選手に気に入られたなんて、可南子さまって凄すぎる。
「そりゃ、リバは攻撃の起点だから。数多くあった方がいいっしょ?」
 そして桜沢選手の声に、一同が深く頷いていた。
「このあと時間があったら、あたしらの試合も見てってよ」
「面白いよ~。きっと」
 桜沢選手と香澄選手、まるでいたずらっ子が何かを仕掛ける直前のような、そんな笑顔でいうのだが。
「……そこは断言しろよ」
 ぽつりと呟く柚原選手の声に、大笑いする一同だった。


 余談だが、成年女子の決勝戦は、オフィシャル席の真後ろという特等席で見せてもらえた。
 審判はオフィシャルに向かって手合図をし、選手たちは試合の進行──チームファウル数やボール優先権を確認するために、試合中何度もオフィシャル席に向くのだ。
 試合状況と選手(特に顔)を見るにはもってこいの席だった。
 愛知代表、いわゆる『ミラクルジャパン』と呼ばれる日本代表(A代表)チームに対する東京代表チームは、その人口と所属チーム(の母体企業の所在地)の数を活かして、現役プロで活躍する人員で構成されていた。
 まさに『ミラクルジャパン』対『WBJオールスターズ』。
 興行収益どれだけ? ってくらいのドリームマッチとなった。
 試合中、何らかのアクションを起こすたびに、その直前にこちらに目を向ける桜沢選手。
 この試合も、彼女にとっては可南子さまへの指導の一環なのだろう。
 そして、それに気づいて桜沢選手やチームの行動をいち早く阻止しようとする相手選手たちも、さすがはプロ。
 知らない人から見れば、単なるオフィシャルの確認にしか見えないのだから。
 もっとも、それで彼女たちが止められるわけじゃなく、指導だからといって試合を疎かにすることもない彼女たちは、見る者全てに世界の壁の厚さと高さ、そしてそれを崩し乗り越えた圧倒的な強さを見せつけたのだった。


 成年女子の表彰式のあと、金メダルや優勝トロフィーの皇后杯(男子は天皇杯)を見せてもらって、報道陣が来る前に早々に退散。
 トロフィーに由乃さまの指紋がべったりとついているのは、まあこの際よいとして。
 メグさん(そう呼べと言われた)のメルアドゲット~♪ と浮かれまくる由乃さまだったが、山百合会幹部にオマケの都も含めて全員がメアドやケー番を交換していたことは、敢えて言わなくてもよいだろう。
 水を差すのもなんだしね。
 で、帰り道。
 現地集合に倣って、現地解散となった。
 祐巳さまはご自宅の車で来たというので、それに乗って帰るとか。
 七人乗りのステーションワゴンということで、由乃さまと志摩子さま、瞳子さまと乃梨子さま、それに歌乃ちゃんとハルちゃんまでをも、ついでに乗せていくらしい。
 祐巳さま合わせてちょうど七人……あれ、じゃあ、誰が運転するの?
 ともあれ、頂いたプリペイドカードの残高に余裕があったため、都は行きと同じく公共交通機関で帰ることにした。
「ごめんなさい、お待たせしたわね」
「え……」
 だらしなくぽかーんと口を開け、ただ見上げるだけの都に、呆れたような、それでいて何処か満足そうな声で、可南子さまは言った。
「なんて顔しているの? さあ、帰るわよ?」
「はいっ!」
 都は、思わず声を張り上げてしまった。
 だって、可南子さまのお姿が、もう二度と見ること叶わないと思っていた物だったから。
 可南子さまは都と同じく、リリアン女学園の制服を着ていたのだった。


「貴女は──」
 電車の中で、不意に可南子さまが口を開いた。
「どんな時でも、自分を失うってことがないのね……」
「へ?」
 通勤ラッシュを思わせる満員の車内で、都はまるで抱きしめられるように、可南子さまに護られていた。
 だから都は、さっきからのぼせ上がっていたのだが。
「えっと……?」
 きょとんと見上げる都に、可南子さまの声が降り注いだ。
「ほら、あの控え室の中で、貴女はあんな凄い人たちに囲まれても平然としていたでしょう? 由乃さまはともかく、お姉さまですら若干の緊張が見られたというのに……」
 そう言われて思い出すが、みなさんの話が面白くてケラケラ笑っていたり、急に話を都に振られておどおどしたり。
 言われてみれば、都が薔薇の館にいるときと大差なかったりした。
 なるほど、そういうことか、と、都は思ったままを口にした。
「確かにみなさん、凄い方々なのでしょうけど……正直なところ、何がどのようにどのくらい凄いのか、よくわからないんです。物知らずですみません……」
 子供が数を数えるようなものだ。
 一、二と、三の次は沢山ってヤツ。四も一〇〇も、みな同じ。
「それに、控え室ではみなさん何というか……そう、お姉ちゃんたちと同じような雰囲気でしたし」
「貴女のお姉さま──沙耶子さまと?」
「根は普通の女の子っていうか、まあ年齢の分だけ話題も多いでしょうけど」
 友達のこと、自分のこと、学業や仕事の話に、食べ物やファッション。
 内容のレベルは違っても、大まかに括ればこんな感じなのだから。
「貴女は、物の本質を見抜く目を持っているのね……」
 あ、あの、可南子さま? それは買い被りすぎというものでは……?
 思わず目を伏せる都の髪を、可南子さまは梳くように撫でてくれた。
 だから、都は完全に舞い上がっていたのかもしれない。
 何の根拠もなく、勝算ありと思い込んでしまったのだ。
「可南子さま、一つだけお願いがあるんですが……」
「何? 私に出来ること?」
 だから、都は口に出してしまったのだ。
「可南子さま、私を可南子さまのいもう」
「駄目っ!」
 それ以上は、声に出せなかった。
 まるで圧迫するかのように、都の顔が可南子さまの胸に押しつけられたから。
「それ以上は言わないで。お願いだから……」
 その先を都が続けていたら、可南子さまはきっと都を抱き寄せている腕を解かなくてはならない。
 その手を離さなければならないのだ。
 都の背中に回された可南子さまの腕が震えているのは、電車の振動なんかじゃないとわかってしまったから。
「……はい」
 都は、そう答えるしかなかった。


 可南子さまの手に引かれて電車を降りてバスに乗り、バスを降りて歩き出す。
 その道すがら、可南子さまは言った。
「私は、貴女が憧れを抱いてくれるような女じゃないの」
 と。
 可南子さまの独白は続いた。
 祐巳さまとの出会いに始まって、ストーカーのごとく祐巳さまを追い回し、自身の男嫌いを祐巳さまに押しつけ、まるで偶像のように祐巳さまを扱い、それを否定されると罵詈雑言を浴びせたこと。
 その後、男嫌いの元凶でもあった父親との確執も解消し、祐巳さまの妹となったこと。
 妹として祐巳さまを支えるべく、常に全身全霊を祐巳さまに向けていること。
 そして二年に進級し、とある下級生に慕われて面食らったこと。
 で、いつしかその下級生に心引かれるようになったこと。
「こんな私が、その下級生の……、貴女の姉になれるなんて、とても思えない。だから私は東京選抜の誘いに乗ったの。何かしら心の支えが、自信の素になるような物が欲しくて」
 名門・私立城南学院高等部のバスケ部員で占められる選手の中でただ一人、外様の可南子さまも同じ練習メニューをこなすべく、合宿生活を強いられることとなった。
 寮生活の城南バスケ部員に合わせていては、とてもリリアンに通学出来ないということで、合宿中は城南高等部で授業を受け、その単位はリリアンに還元されるとか。
 選抜合宿が終わった今、晴れてリリアンに戻ることになったという。
 可南子さまがリリアンに戻られるなら、これからもリリアンで可南子さまにお逢い出来るなら、それだけで都は天にも舞い上がる気持ちになれたのだが、可南子さまの声は相変わらず沈んでいた。
「でも、やっぱり駄目ね。結果はご覧の通り。貴女や、貴女の周りの人たちに誇れる物なんて得られなかったわ」
「そんな……可南子さまは立派です。リリアンでも紅薔薇のつぼみを立派にこなせて、全国二位のバスケの腕前で、私なんか足元にも及ばないほど素晴らしい人で」
 いつの間にか足は止まり、目にいっぱいの涙をためて、都は可南子さまを睨み上げるように言った。
「可南子さまは、私の憧れの人です。そんな可南子さまを貶めるような発言は、誰であろうと赦せません。それが、可南子さまご自身であっても」
 あのときのお姉ちゃんの気持ちが、よくわかった。
 大切な人に、そんなことを言わせてしまう自分が悔しくて情けなくて、でもとても心配で、元気になって欲しくて……。
「私が可南子さまのことを知ったのは、中等部に回ってきたリリアンかわら版でした」
 今度は都が独白した。
 紅薔薇のつぼみの妹として初めて紙面に登場してから、都は苦心して毎号入手してきた。
 祐巳さまが可南子さまを妹としてだけでなく、人として可愛がっておられること、可南子さまが祐巳さまを支えるべく、常に陰に回っていることなどが読み取れたのだ。
「かわら版って……私はそんなに載っていなかったはずよ?」
 瞳子さまや乃梨子さまに比べて、確かに可南子さまの登場回数は少なかった。
 むしろ皆無と言っていいほどだ。
 その分、祐巳さまの登場回数は目に見えて多く、祐巳さま自身が可南子さまを話題にしていたのだ。
 縁の下の力持ちとも、自身の右腕とも。
 それじゃ、そんな祐巳さまを全力で支える可南子さまを、誰が支えるのだろう?
 人々を救い導くのではなく、天の意志を忠実に再現し人々を断罪する文字通りの『天使』として、憧れの山百合会の中でも畏怖を持って扱われる可南子さまを、一体誰が?
 高等部に進学出来て、可南子さまと触れ合うことが出来て、都はわかってしまったのだ。
 実際の可南子さまは、みんなの言うような冷たい人などでは決してなく、祐巳さまの隣に相応しいようにと常に自分を律しているだけの頑張り屋さんだということが。
 でも、それだけじゃ疲れちゃうから。
 お姉ちゃんの口癖でもある紅薔薇家の家訓『姉は包み込んで守り、妹は支え』。
 今まで可南子さまにずっと包み込んで守ってもらったのだから、今度は都が可南子さまを支えたかった。
 誰も可南子さまを支えようとしないのならば、尚更なのだが。
「でも、さっき断られちゃいましたけどね……」
 ためていた涙が、堪えきれずに一筋頬を伝った。
「待って。誰も断ったりなんてしていないわよ?」
「え? でも、さっき電車の中で駄目って……」
「それは……、貴女の口から言うのが『駄目』なのよ」
「へ?」
 理解不能、意味不明。
「私は……さっきも言った通り、お姉さま──祐巳さまに全てを捧げているわ。でも、同じ気持ちは貴女に対しては持てないから、きっと貴女を蔑ろにするわ。寂しい思いをさせてしまうわ。それでもいいの?」
「えっと、それって……」
 祐巳さまと同じ愛情を、都には向けられないということだろうか?
「あの、可南子さま? 私は祐巳さまじゃありませんので、同じ愛情を向けられても応えることが出来ませんよ?」
 今度は可南子さまの目が点になった。
「例えばうちのお姉ちゃん、旦那さん──お義兄さんを一〇〇パーセント愛してますけど、かといって妹の私を愛してないわけじゃなくて、でもお義兄さんと全く同じ愛情であるはずはないんですよ」
 ああ、自分の説明下手が恨めしい。
「つまり、恋人への愛情、姉への愛情、妹への愛情、それぞれ全部違って当たり前なんです」
「全部違って……当たり前?」
「はい。私はこれだけで充分愛情を感じてます」
 そう言って、都は自分の左手を挙げた。
 その先には、可南子さまの右手が繋がっている。
「貴女は、私でいいの?」
 都を見る可南子さまの目が潤んでいた。
「可南子さまじゃなきゃ、嫌です」
 もう、都は流れる涙を止めようとはしなかった。
 可南子さまは都から手を離すと、両手で首からロザリオを外し、都の前に差し出した。
「じゃあ、私の妹になってくれる?」
「──」
 声が掠れて、言葉にならない。
 向き合って見つめ合うこと数瞬、可南子さまはそっと息を吐く。
「都」
 そして、ズバッと切り出した。
「はい」
「貴女、私の妹になりなさい」
 威厳を持った、いつもの可南子さまの声に、都は自然と頭を垂れた。
「お受け致します」
 首にロザリオの重みを感じた瞬間、都は可南子さまに抱きついて、声を上げて泣き出した。
「やれやれ、私の妹は泣き虫ね」
 慈しむような声に、とある言葉が都の口を衝いて出た。
「……お姉さま」
「私たち、随分と寄り道をしてしまったみたいね……」
「お姉さま?」
「私、貴女に一目惚れをしていたのよ。今になってわかったわ」
 都を抱く可南子さまの腕に、力がこもった。
 痛くも苦しくもなく、ただ温かくて嬉しくて。
 都は身体の力を抜いて、可南子さまに預けるのだった。
「ねえ、都。もう一度……呼んでみて?」
「お姉さま……」
「はい……」
 抱き合う二人を、マリア様がみていた……マリア様?
 可南子さまのバッグから流れるグノーのアヴェ・マリアが、二人を現実に引き戻した。
「お姉さま? 何故?」
 携帯を取りだして着メロを止め、画面を注視し、そして可南子さまは見上げた。
「本当に見ていたのかも……」
 可南子さまの見上げた先には、白亜のマリア様。
 奇しくも、ここはリリアン女学園内の、通称マリア様のお庭。
 何気なく足を向けてしまったとのことだが、それも運命だったのかも。
 都に見せられた携帯の画面には、祐巳さまからのメールが。


『話が終わったなら、薔薇の館へ直行。学園祭の劇の打ち合わせするよ。ちなみに今年はロミジュリだから、よろしくね』


 タイミングがよすぎて、何をどう突っ込んでいいのかわからない。
 やれやれ、と、可南子さまは大きな溜め息を吐いた。
「仕方ない。行こうか」
 差し出された右手を、都はしっかりと受け取った。
「はい、お姉さま」
 堅く強く手を結び、二人は歩き慣れた道を行くのだった。



 中庭にある小さな洋館の軋む階段を上り、天国への扉にも似たそのドアを開ければ、そこには私を待っている人がいる。
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう。山百合会へ、ようこそ」
 天使のような笑顔を浮かべて、その人は私を迎え入れてくれるのだった。


fin.