Heaven's Gate #13

 


 夏。
 およそ、学生のほとんどが待ち焦がれている長期休暇。夏休み。
 その、せっかくの夏休みだというのに、都は生ける屍と化していた。
 ただでさえ暑い日中にエアコンもつけずに、カーテンも閉め切った部屋のベッドの上で座り込んだまま、身動き一つしなかった。
 身体を壊したわけではないが、指一つ動かす体力も気力もなかった。
 このまま、闇に融けてしまえば──。
 珍しく思考が浮かんだと思った瞬間、光に包まれた。
「……いつまで黄昏れてんのよ?」
網膜を焼くような眩しい光とともに現れたのは、救いの神でも、もちろんマリア様でもなくて、どちらかといえば『雷神』さま。
「いい加減にしなさい。いつまで閉じこもっていれば気が済むの? もう三日目よ?」
 ところ構わずカミナリを落としまくる、お姉ちゃん。
 ずかずかと部屋に入っては、いきなり電気をつけ、エアコンをつけ、カーテンを開け、そして窓まで開け放つ。
「……沙耶子、キツ過ぎだぞ……」
 目をこらすと、ドアの陰からお義兄さんが。
 ばつの悪そうな顔をして、こちらを覗き込んでいた。
「お……義兄さん?」
「なあ、みやちゃん、腹減ってない? なんか食いに行こう?」
「……いえ、お腹空いてない……」
「ん? 何がいい? 甘いものの方がいいかな? 六本木の美味いデザート屋行こうか?」
「甘いのは輔(たすく)よ、全く。こんな引きこもり娘の機嫌なんか取らなくていいのに……」
 完全に八つ当たりなのだが、その原因は都にあるので、助け船どころか口すら出せない。
 お義兄さん、ごめんなさい……。
 もっとも、思考回路が全く働いていない都に、何か役に立つとは思えないが。
 そんな都を一発で現実に引き戻したのは、都の耳元で囁いた……というより放った、都にとっては痛恨の一撃。
「都……あんた、臭うわよ?」
「……え?」
 慌てて袖のにおいをかぐと、確かに……いや、かなり汗臭かった。
 一瞬で目が覚めた。
 そして、携帯電話の画面で日付を確認して、一気に青ざめた。
「わ、お、お風呂っ!」
 終業式から、もう四日も経っていたのだ。
 そういえば、あの日、どうやって家に帰ったのかすら覚えていない。
 ただ覚えているのは、あの衝撃の事実のみ──。
 事実──だったんだろうな、やっぱり。
 普段はほとんど鳴らない都の携帯、その留守電がパンクしていたのだから。


 留守電の相手に電話をかけ直す作業は、思ったよりも簡単に済んだ。
 相手は歌乃ちゃんとハルちゃんの、二人だけだったからだ。
もっとも、簡単だったのは電話をかけ直すことだけで、二人にかけていた心配を払拭するのは 至難の業で、ほぼ数日を費やした。
 そして、その一日目──。
 都は歌乃ちゃんとハルちゃんに連れ出され、K駅まで来ていた。
 駅ビルのバーガーショップで、尋問にも似た拷問を……あれ?
「……みやっち、痩せた?」
「っていうより、やつれてるわよね。ちゃんと食べてるの?」
「んー。ポテトは……いつ振りだろう?」
 ハッシュドポテトもフレンチフライも、お義兄さんが作った物の方が美味しいから、この手のお店では注文しない都だが、何故か今日はついセット物を注文してしまった。
 やっぱりボケていたのだろう。
「中学以来じゃない? そもそも、みやはこの手の店に来ないでしょ」
「え? ひょっとして、マズかった? みやっち、嫌いだったとか?」
 歌乃ちゃんの言葉に、ハルちゃんが過剰反応。
「ううん、嫌いじゃないよ? 滅多に来ることはないけれど……」
 トレーに広げたポテトを一本摘む。
「ねえ、みや。本当に、食べてるの?」
 気がつくと、ハルちゃんまでもが都をじっと見ていた。
 ハンバーガーを片手に、食べる手を止めて。
「確かに……。それで三本目だよね? ポテト……」
「え?」
 みると、歌乃ちゃんもハルちゃんも、トレーの上は半分以上片付いている。
 都のトレーには、手つかずのハンバーガーとウーロン茶が残っていた。
「ハルちゃん、パスっ」
「……いや、いいけどね……」
 トレーに置かれた都のハンバーガーを見て、ハルちゃんは溜め息を吐いた。
「みやっちって偏食なかったよねぇ?」
「うん、好き嫌いはないけど。歌乃ちゃん、ポテトは?」
「持って帰れ」
 にべもなかった。


 連れ出され二日目は、ハルちゃんのテンションが高かった。
「でさぁ、何でハルはカメラ持ち歩いてるわけ?」
 写真部でもあるまいし、と歌乃ちゃんが言った。
「ふ~みんにアドバイスもらって。初めてでも簡単、多い日も安心、ってね」
「誰よ、ふ~みんって。しかも突っ込みどころ満載で」
 多分、写真部所属でクラスメイトの夏目史香さんのことだと思う。
 ハルちゃんは新品のデジカメを片手に、辺り構わずシャッターを切っていた。
 しかも、背面の液晶画面を見ずに、である。
 何が撮れているのかわかったものではないが……。
「しかも横漏れもないんよ?」
「何かが漏れるカメラなんて、そんなの嫌よ」
「水没しても大丈夫なんよ?」
「言いたかったのは、それなのね……」
 どうやら防水だったらしい。
 頭を抱えた歌乃ちゃんは、同意を求めるように都を見て、そして固まった。
「みや、どうかした? 体調悪いとか?」
「え? 別に何ともないけど?」
「うん、やっぱり痩せたよね、みやっち。狙ってたな?」
「何を?」
 ハルちゃん、やっぱりわからないよ……。
「みや、本当にわかってないの?」
 歌乃ちゃんの言うことも、よくわからないんだけど?
「今日、何しに出てきたか……昨日も言ったんだけど?」
 ……ごめん、覚えてないよ。
 溜め息を一つ吐いて、歌乃ちゃんは都に指を突きつけた。
「お姉さまからプールのチケットを頂いたから、一緒に行こうって話よ」
「プール?」
 そういえば、そんな話もあったような、なかったような……って?
「わ、私水着持ってきてない」
「……見ればわかるわよ、そんなの」
 ほとほと呆れたって顔をして、歌乃ちゃんが言った。
「私たちが、水着持ってるように見える?」
 お財布の入ったポーチを持つ歌乃ちゃんはともかく、ハルちゃんはカメラ以外を持っているようには見えない。
「だから、買いに行くのよ。水着」
「うそ? お金持ってきてないよ」
「大丈夫、預かってきたから」
「誰から?」
 まさか瞳子さまから……とか、絶対にあり得ない。
「沙耶子姉さんからよ。ついでに夏休み中、みやを引き回す許可も頂いたから」
 歌乃ちゃんの目配せを受け、ハルちゃんが都の腕を絡め取る。
「で、みやっちの行動費用は、マスターから預かってるよ。私らのバイト料も含めてね」
 バイトって……。
「ハルちゃん、リリアンはバイト禁止──」
「知り合いの家の手伝いだよ。ヒッキー更正のね」
 冗談めかして言うハルちゃんの、目は笑っていなかった。
「……ごめんね、ハルちゃん」
「悪いと思うんだったら、ちゃきちゃき動く。ほら、行くよ」
「え? あ、ちょっと待って」
「待てない! 歌乃っち」
 今度は歌乃ちゃんが、都の空いた手を引っ張る。
 なすがまま、都は駅の改札を抜けるのだった。


 渋谷まで出てきたのは正解だった……か?
 ファッションビルの一角では、水着の大バーゲン開催中だった。
 夏真っ盛りとはいえ、ファッションの世界は既に秋物にシフトしている。
 だから、思ったよりも安く買えるのだが……。
「ねえ、歌乃ちゃん。本当に買うの?」
 一山いくらのワゴンには目もくれず、歌乃ちゃんはずらっと並ぶハンガーの列に飛び込んだ。
「みやは買わないの? 今年の新作が半額なのよ?」
「うん、でも、よくわからなくて……」
 去年の夏は……引きこもっていたな、やっぱり。
 中三とはいえ、受験があったわけではないが、それでも出歩くのは気が引けた。
 プールや海などもってのほか。
 水着なんて、学校で使った物しか持ってないし、それ以外に必要もなかった。
「じゃあさ、みやっち。これ着てみてよ」
「ハルちゃん、どれ? ……って、誰?」
 振り向くと水着の山と、それを抱えた、多分ハルちゃん。
「あのねぇ、ハル。ここから全部頂戴な、って何処のセレブよ?」
「いや、みやっちに似合うなって思ったものが、沢山あってさ」
 更衣室の床に置かれても、やっぱり山積み。
 しかも、ロングスカート風のパレオが付いたワンピースから、何処のリオのカーニバルだって小一時間問い詰めたくなるほど面積の少ない、もはやマイクロビキニとも呼べない単なる紐のような物まで──。
 ──これを、着ろってか?
「私に似合うって……これも?」
「うん。エロ可愛くって、いいじゃん?」
 よくない。エロはともかく、この面積の何処に『可愛い』が入れるの?
「……エロエロいだけじゃん、こんなの」
「え~? そうかなぁ? いいと思うんだけどなぁ?」
 にやけるハルちゃん。オヤジか?
「じゃあ、これ、私が着たら、ハルちゃんも着てね。絶対だよ」
「え? マジ? ちょっ……」
 ハルちゃんの言葉を、カーテンで遮る。
 水着の試着は、下着の着用が基本。ブラはともかくショーツは脱がない。
 たまたま今日の都の下着は、モールドカップのタンクトップ風Tシャツブラと、お揃いのプレーンショーツだったりする。
 しかもベージュだから、遠目に見れば裸にも見える。
 よって、都はブラの上に水着を着けることにしたのだ。
 しかし……。
「あ~っ、みやっち、ズルいっ!」
「ズルいじゃないよ、ハルちゃん。これ、隠れるどころか……」
 おしりとかに食い込んで、むしろ紐の方が隠れるよ。これは……。
「着せる方も着せる方だけど、着る方も着る方ね……」
 自分の分の会計を、いつの間にか済ませた歌乃ちゃん、ぽつりと漏らした。
「……じゃあ、ハルちゃんの次は、歌乃ちゃんね」
 歌乃ちゃんの反論をまたもカーテンで遮って、都は水着(?)を脱ぐのだった。

 そして、さらに数日後。
「アンタたち……、バカでしょ」
 厳しい視線とともに、胸に刺さる言葉を投げてくるのは、黄薔薇さま。
 ハルちゃんのカメラ画像を見ながらだから、都に否定出来る要素は何一つない。
「……見るだけで、恥ずかしいわ」
 そして、火を噴く勢いで顔を紅く染める瞳子さま。
「着る方も着る方だけど、撮るか? 普通、ショップの更衣室で……」
「盗撮?」
「しっかりカメラ目線で、しかもポーズ取ってますよ、この子ら……」
「あらあら……。じゃあ、私たちも撮る?」
「え? し、志摩子さん? マジっすか?」
 突然、乃梨子さまの肩を抱く白薔薇さま。
 見ると、カメラは既に紅薔薇さまの手に。
「こ、こんな……ところで?」
 何処のリゾート地だ、と思わせる都心の高級ホテルのプール、その更衣室で、相変わらずじゃれ合う面々。
「ふふふ、まじっすよ~。さあ、乃梨子、笑って~」
「志摩子さんが壊れた……。ハル、責任取りなさい。ほら」
「わ、私がっ? お、お姉さまっ! マジっすか?」
 猫のように首根っこを掴まれて、ハルちゃんは運ばれていった。
 わーとかきゃーとか、場所的にありえない悲鳴が響く。
「みや、貴女もさっさと着替えた方がいいわよ?」
 呆気にとられていたから、手が止まっていた。
「あ、うん。そうだね……」
 きゃあきゃあ言ってる連中は、既に水着に着替え終わっていた。
 都も慌てて水着に着替えるのだった。
 いや、変なヤツじゃなく、ちゃんとしたのを、ね。


「ほぉ、結構いいじゃん。写真見た時は、どうなるかと思ったけど」
 みんなでプールに行くとは聞いていたけれど、入場料だけで五桁飛ぶようなところだとは思わなかった。
 招待状で無料だったとはいえ、女子高生が普通に入れるところではない。
 これは、水着を新調して正解だったな。
「紺のタンキニね。本当、よく似合ってるわ……」
 黄薔薇姉妹に褒めて頂くなんて、光栄極まりない。
「あはは、ありがとうございます。結構安かったんで……」
 おかげで、同じ予算でまで買えたのは、いい思い出。
「でも……」
 瞳子さまのお顔が、瞬時に曇る。
「それは、頂けないわね……」
「え? あ……」
 瞳子さまの視線の先は、都の左手首。輸入物のダイバーウォッチ。
 一般的な女子高生にはおよそ似合わない、ヘビーデューティーな作りと、明らかに紳士物と思われるそのサイズ。
 それもそのはず、本来この時計は、お義兄さんとお姉ちゃんが婚約指輪の代わりに、ペアで揃えた物だったのだが、都が馬鹿な真似をして手首に傷が残ってしまい、それを隠すにちょうどいいと、お義兄さんがくれたのだ。
 夏でも長袖を好んで着用する都だから、普段はあまり目立たないのだが。
「海ならともかく、このプールでは他人を傷つける恐れがあるわね……。外してらっしゃいな」
「え? あ、あの……みゃあっ!」
 たじろぐ都を背後から羽交い締めにするのは……この場にただ一人。
「なぁに、瞳子ちゃん。みゃあちゃんイジメ?」
「人聞きの悪いことを……祐巳さまほどじゃないです」
「え? あ?」
 祐巳さまの魔の手(笑)から逃れようともがく都だか。
「ん~。柔らかくて、気持ちいいな~」
 抱き寄せて擦り寄って。
 温かいというより、はっきりいって、暑い。
「ロッカーの鍵は?」
 歌乃ちゃんと共用したから、都は持っていない。
 都が首を横に振ると、瞳子さまは自分の手首のバンドを外した。
「これを使いなさい。鍵は貴女が持っていて頂戴」
「えっと……」
「みゃあちゃんを荷物持ちに?」
「本当に人聞きが悪いですわね、祐巳さま……」
 心底呆れた顔をする瞳子さま。
「あはは、冗談だってば。じゃあ、みゃあちゃん。行ってらっしゃい」
「あ、はい……」
 鍵を受け取り、もう一度ロッカールームへ。
「……瞳子ちゃん、いいとこあるね」
「歌乃の──私の妹の親友ですもの。あの子は私にとって家族も同然ですわ」
 うんうんと頷き、祐巳さまは瞳子さまの腕を取った。
「え? え?」
 アイコンタクトで以心伝心。
 空いた片腕は由乃さまに絡め取られて、薔薇さま二人にプールサイドへと引っ張られる瞳子さま。
「さあ、泳ごう!」
「ちょ、ちょっと待ってください。準備運動とか──ああっ!」
 ドボンと大きな水の音がしたのは、気のせいだと思いたい……うん。


à suivre...