「さて、祐巳ちゃん。そろそろ行こうか?」
ボックス席でもみくちゃにされていた聖さんが、おもむろに立ち上がった。
『えぇ~っ!』
ブーイングともとれる叫び声をあげたのは、その他ボックス席を構成する方々。
「なに、聖ちゃん。もう行っちゃうの?」
「だって、もうこんな時間ですし……」
これ見よがしに腕時計を覗き込み、こほんと咳払いをする聖さん。
「それに、私は『デート』の最中なんですから」
『デートぉ?』
目が点になりながらも、OGのお姉さま方は、聖さんを席に引き戻そうとした。
「あはは、仕方ないなぁ」
そう呟いた紅薔薇・祐巳さまが席を立ち、通路まで迎えに出た。
「じゃあ、みゃあちゃん、後でね。可南子、後を頼むわ」
そう、私たちに言い残して。
お相手がこの場にいるなら、仕方がない。
お姉さま方も、そこまで野暮じゃない。
免罪符(?)を得た聖さん、堂々と席を立ち、店を後にしたのだった。
――祐巳さまの肩を、しっかりと抱いて……。
祐巳さまたちが店を出て、しばらくはお姉さま方の声も聞こえたものの、一人二人と口を閉じ、聞こえるのは店内に流れる音楽と、お姉ちゃんの洗う食器の音だけとなっていた。
「みゃあっ!」
そんな中、しんと静まり返った店内の静寂を見事なまでにぶち壊したのは、都のあられもない叫び声だった。
いきなりスカートを引っ張られ、思わず悲鳴をあげたつもりが、なんとも格好のつかない情けない声で、隣に座る可南子さまも呆れ顔。
一体誰が……と、振り向いても誰もいない。
しかしながら、つんつんとスカートを引っ張り続けられて……。
ふと足元を見ると、そこには鮎美さんがしゃがんでた。
都のスカートの裾を掴んで。
「ねえねえ、みやちゃん?」
い、いつの間に……?
鮎美さんが近づいて来てたなんて、全然わからなかった。
綺麗なお姉さんが子供のような仕草をするのがおかしいのか、それとも都のリアクションが変なのか。
可南子さまの肩が、かすかに震えていた。
「っと、可南子ちゃん? 何がおかしいのかな?」
しゃがんだまま、上目遣いで睨む鮎美さん。
いや、笑われているのは、都ですから……。
「あ、失礼しました。姉と同じ仕草をなさるものですから、つい……」
言われてみれば、確かに祐巳さまが、薔薇の館でよくなさっている仕草だ。
主に白薔薇さま──志摩子さまに対して。
決まって志摩子さま、キャッて可愛らしい声をあげていた。
都もリリアン生として、そんなリアクションを……そんなキャラじゃないな。
考えただけで、へこんでしまう。
そんな、浮き沈みの激しい都を、上から下から見つめる美人さんたち。
「都に、何かご用で?」
いち早く脱出した可南子さまに、鮎美さんが言った。
「ん。『白薔薇家・最大の懸念』って、何かな? って」
「それは、私も知りたいわ」
鮎美さんの肩に手を置いて、その横に真冬さんが立っていた。
「現役『つぼみ』の可南子ちゃんが言うくらいだから、私たちの下あたり……聖がしでかした事でしょうけど」
聖さんの行動の責任は、姉である私が取るから、と、真冬さんは可南子さまに詰め寄ったが、可南子さまはくすくすと笑うだけだった。
「ねえ、可南子ちゃん。笑ってないで、答えてくれないかな?」
にっこりと微笑むしのぶさん。
いつの間にか、お姉さま方全員で都たちを取り囲んでいた。
その中にお姉ちゃんがいなかったのが、都には救いだったが。
「いえ、そんな大した事じゃありませんので。山百合会幹部は姉妹関係で成立するのですから、想定されていた事ですし」
その一言で、ピンと来たのは真冬さん。
「迷惑かけたわね、私の妹が」
「とんでもない。聖さまは、なくてはならない方です。私の姉にとっても……」
嬉しそうで、でも、どこか寂しげな目をして、可南子さまは答えた。
「ねえ、真冬。説明してよ」
鮎美さんが急に立ち上がったから、手を置いていた真冬さんがバランスを崩す。
でも、倒れなかったのは、その後にしのぶさんがいたから。
結果、しのぶさんに抱きかかえられ、久方ぶりのスキンシップに目を細めてうっとりしている真冬さん。
「……ダメだ、こりゃ」
長年の経験から悟ったか、鮎美さんは可南子さまに視線を戻した。
「聖ちゃんが、三年になってから一年生の妹を作った。でしょ?」
しのぶさんが口を開いた。
白薔薇家の懸念だから、元白薔薇家は理解したようだ。
紅と黄色の元薔薇ファミリー、全員がきょとんとしていた。都も含めて。
「ええ。『妹は一年下でなくてはならない』という訳ではありませんので」
呟くように、可南子さまが言った。
「なるほど、そういう事ね」
カウンターの中から声がした。
「お姉ちゃん? どういう事?」
「三年の聖ちゃんが一年の妹を持った。じゃあ、その一年生はどう呼ばれるの?」
逆に訊き返されてしまった。都自身が考えろって事か。
「白薔薇のつぼみでしょ?」
「一年生で『つぼみ』かぁ。プレッシャー、キツかったろうなぁ」
沙紀さんが、ぽつりと呟いた。
「まあ、私らは比較的早かったからね。妹見つけんの」
沙紀さんの肩を抱き、寄り添う美月さん。
「で? それが?」
「……鮎美。少しは自分で考えなさい」
しかめっ面のお姉ちゃんに、鮎美さんは肩を竦めて見せた。
「ねえ、可南子ちゃん。その一年生は、進級してどうなった?」
しのぶさんが話を促し、それに可南子さまが応えた。
「薔薇さまになられました。現白薔薇さまが、その方です」
志摩子さまは、二年連続で白薔薇さまだ。
もちろん、その妹である乃梨子さまも、二年連続で『つぼみ』で……あれ?
ほんのかすかな閃きが、都にも訪れた。
「ねえ、可南子さま。それじゃあ『つぼみの妹』は?」
お姉ちゃんと白薔薇家を除く薔薇さまOGたちがあっと声を上げ、可南子さまは都に向かって優しく微笑んでくれた。
「乃梨子さんも、一年生で『つぼみ』だったわ。薔薇さまが二年だから、仕方ない事だけれど」
かくいう可南子さまも、瞳子さまだって『つぼみの妹』になったのが遅かったと聞いている。
先代の山百合会は、慢性的な人手不足だったのだ。
もっとも可南子さまも瞳子さまも、頻繁にお手伝いに参加されていたらしいが。
「そう。『つぼみの妹』の欠員。それが『白薔薇家・最大の懸念』の顛末よ」
可南子さまも瞳子さまも、年明けてから『妹』になられたのだから、実質二ヶ月ほどしか『つぼみの妹』を経験していない。
それは、だから他色の薔薇にもありえた話なのだと、可南子さまは言った。
仕事のために妹を作るのではないのだから。可南子さまは、そう仰った。
そんな可南子さまのためならば、と都は思うのだが、如何せん自由になる時間がない。
お姉ちゃんやお義兄さんに甘えてしまえば、それも可能なのだけれど……。
でも、それは都のわがままだから。
都は、都の出来る範囲で、精一杯やればいいのだ。
「まあ、でも、それももう解消するでしょうけれど……」
にやりと笑みを浮かべる可南子さまに、当然ながらみんなが食いついた。
「え? それって、もしや?」
ここだけの話ですが、と念を押し、可南子さまが口にしたのは乃梨子さまの話。
そして、ハルちゃんの──。
「そ、それは、是非にでも見に行かねば」
「……そっとしておいてあげなさいよ」
興奮気味のしのぶさんに、お姉ちゃんが冷や水を浴びせた。
しのぶさんは、まるで海外ドラマの主人公のように、両手を広げて肩を竦めて見せた。
そんな様子をクスリと微笑み、可南子さまが席を立つ。
「さて、そろそろ私たちもお暇させていただきます」
あ、可南子さま、もう帰られるんだ……って、たち?
可南子さまの視線は、まだスツールに座る都へと注がれ、そしてお姉ちゃんへと向けられた。
「今晩、都さんをお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。よろしくお願いします」
満面の笑みで、お姉ちゃんはそう言った。
「さあ、行くわよ?」
「え? あ、はい」
思わず都も席を立つ。
そんな二人を、しのぶさんが呼び止めた。
「あ、可南子ちゃん。その神社って、何処かな?」
「リリアン正門からバスで三区間戻ったところの、真上神社です」
「それって、私たちも見に行っていいかな?」
「ええ、もちろん。神社の行事ですので、どなたにもご覧いただけるはずです」
「ありがとう。お邪魔させて頂くわ」
そう言って、しのぶさんは可南子さまの手からレシートを抜き取った。
「あ、それは……」
「貴重なものを見せてもらったお礼に、ここは私がご馳走するわ」
それは、聖さんの笑顔。
一瞬、戸惑った様子を見せた可南子さまだったが、そこはやはり卒がなかった。
後輩として、そしてつぼみとして、可南子さまは最適の回答をした。
「恐れ入ります。ご馳走さまです」
しのぶさんも満足そうに頷いて、そしてみんなに振り向いた。
「さて、タクシー二台で足りるよね?」
指差して人数を数えている。
当然ながら可南子さまや都も頭数に入っているようで。
しのぶさんの指が、最後にお姉ちゃんを指して止まった。
「私は仕事中。出られる訳ないじゃ……」
お姉ちゃんの言葉を止めたのは、カランと鳴ったドアベルの音。
「いらっしゃ……おかえりなさい」
入ってきたお義兄さん、出迎えた(訳でもないが)面々に目を丸くしたが、立ち直りも早かった。
そして、一同を見回したあと、神妙な顔つきでお姉ちゃんに言った。
「沙耶子……」
「な、何?」
「……帰りに、たこ焼き二皿、買ってきてくれ」
「え?」
「俺の晩メシだよ。これから真上神社に行くんだろ? みんなで」
ついでにメシ食ってくるんだろ? と。全ての行動が読まれていた。
今度は、お姉ちゃんが目を丸くする番だった。
「ど、どうして?」
「いや、神社の前通ったら、リリアンの制服着た子が溢れてたからさ」
固まるお姉ちゃんに、お義兄さんは持っていた一升瓶を手渡した。
「ついでに、これ置いてきてくれ。差し入れだって、な」
その瓶の重みで、お姉ちゃんは我に返る。
「これ、奉納用じゃないの?」
「奴に渡ると、神様に届く前に飲まれちまうよ」
カラカラと笑い、お義兄さんはカウンターの中へ。
「素敵なお兄さまね」
男性嫌いで評判の可南子さまが、お義兄さんを褒めてくれた。
都は、すごく誇らしくて、すごくありがたくて、涙が出そうになった。
境内は、まるでリリアンの中庭かと思うくらい、リリアンの生徒が多かった。
柔道部や剣道部など、武道系のクラブは言うに及ばず、日舞研究会や演劇部など舞踊系のクラブまで、神楽を見に集まっていた。
あとは軽音や合唱部(特に聖歌隊)などの音楽系クラブに、綺麗なものを見たい連中、単なる野次馬など、とにかく生徒が多かった。
特に一年桃組は、予想通りというか、やっぱり全員が勢揃いしていたが……。
そんな中、比較的大きな群れが二つ。
そして、それを取り囲むように、層をなす生徒たちの中に、都は分け入った。
(勘が当たりますように……)
そう願いながら、人混みを掻き分けて、少しでも中へと進む。
「ごめんなさい、通してください……」
悲鳴にも叫びにも似た声を上げながらも中央付近まで近づくと、そこは都の想像通りの空間だった。
中央にぽつんと数人、それを数歩離れて取り囲むように数十人、そして……の繰り返しなのだ。
その、最後というか最初の空間まで辿り着き、己の勘が正しかったことにほっと息をつき、そして都は中央の少女たちに向けて口を開いた。
「黄薔薇さま。瞳子さま」
中央の少女たちが、そして背後の数十人が、都に目を向けた。
それはそうだろう。取り巻いている連中は、誰一人として彼女たちに声をかけなかったのだから。そんな中での都の行動は、英雄的だったのか、はたまた単なる無謀だったのか?
背後から失笑が聞こえるのは、黄薔薇さまの視線の所為だろう。思いっきり不快感を表す表情と共に、都を射抜くように見つめる、その視線の。
「ああ、貴女ね。何か用?」
その声も、低くて冷たくて。
それでも、都は泣きたくなるのをぐっと堪えて、更に口を開いた。
「紅薔薇さまが……祐巳さまがお呼びです。瞳子さまも……」
「そう、わかったわ」
部活中だったのだろう、白い道着に白袴の女剣士は、都の前まで歩み寄ると、視線を真っ正面から都にぶつけて、ぽつりと言った。
「貴女、私のことを名前で呼べって言ったの、覚えてないの?」
「あ……」
黄薔薇さまの、不機嫌の原因に思い至った都は、その場で深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、由乃さま。あの……」
ぽんと、頭に手が乗った。
思わず見上げると、さっきの憮然とした表情ではなく、にっこり微笑む神々しいまでの美少女が、そこにいた。
「祐巳さん、呼んでるんでしょ? 連れてってよ」
心の準備もまだ出来ていないのに、由乃さまは都の手を握ると、ぐいっと引っ張るように歩き出す。
そんな都の横に、いつの間にか瞳子さまが。
「ごめんなさいね、都さん。お姉さまが……」
「うっさい、瞳子。さっさと歩くっ!」
「うるさいとはなんですかっ! 大体お姉さまが我が儘すぎるのが……」
都を挟んで口喧嘩を始める黄薔薇姉妹。
その背後では歌乃ちゃんが、視線でゴメンと謝っていた……。
祐巳さまのところへ行くと、既に可南子さまは白薔薇姉妹を連れてきていた。
「何? 祐巳さん。志摩子さんたちも?」
あははと笑う祐巳さまに由乃さまたちを任せると、今度は可南子さまが都のところへとやってきた。
「ご苦労さま」
そういって可南子さまは、都の制服のタイに手を伸ばす。
「わぁ、あれが紅薔薇タイ直しっ」
少し離れた人の壁から、そんな声が聞こえた。ハッと息を呑む音も。
それは、可南子さまの穏やかな笑顔を目の当たりにしたから。
普段は滅多に微笑まない、クール&ビューティーな可南子さまの、柔らかな笑顔を見たから。
「可南子さまって、綺麗よね……」
今頃気づいたか、この平民どもが……って、立場は都も同じなのだが。
「ん? どうしたの?」
際限なくニヤけてトロける都の顔を引き締める、可南子さまの視線。
「あ、いえ、何でもありませ──」
「祐巳?」
都の、いや、この場にいたリリアン生徒の時間を止める、凛とした声。
しかも、紅薔薇さまである祐巳さまを呼び捨てにするだなんて……。
その声の持ち主は、苦もなく人垣を通り抜け、場の中央にいる祐巳さまの前へと躍り出た。
「お姉さまっ!」
お、お姉さま? 祐巳さまの?
どこからともなく、ワーッと黄色い歓声が上がった。
「ご無沙汰いたしております、お姉さま」
「祐巳も、元気そうでよかったわ」
当然のように、祐巳さまのタイに手を伸ばす彼女。
それとともに、キャーッと悲鳴にも似た嬌声が。
元祖・紅薔薇タイ直し。
祐巳さまの──まるで都のような──蕩ける笑顔は、初めて見た。
それもそのはず、一年生では決してみることの出来ない、最上級生の『妹』の顔なのだから。
「祥子、いくら慌てて来たからって【パジャマ】はないでしょ。パジャマは」
「久しぶりにお顔を拝見したと思ったら、相変わらず失礼な方ですのね。聖さま」
ムッとした祐巳さまのお姉さま──小笠原祥子さま──は、爽やかなパステルカラーのサマードレスに身を包み、キッと聖さんを睨みつけた。
慣れない人なら、その視線だけで凍りついてしまうだろう、強烈な冷気を纏う、文字通り刺すような視線を一身に受け、聖さんはカラカラと笑い飛ばした。
「して、何用ですの? 私もそれほど暇というわけではないんですけど」
「も、申し訳ありません、お姉さま。どうしてもこの場にお姉さまの存在が必要でしたので、私が無理を言って……」
慌てて祐巳さまが頭を下げると、一変。祥子さまは温かく微笑まれたのだった。
「いいのよ。祐巳が私を呼ぶのなら、世界の果てだって、すぐに駆けつけるわ」
「お姉さま……」
うっとりとする祐巳さま……って、何処かで見たような?
ああ、なるほど。さっきの都と同じなのだ。
……美人度は桁違い、月とスッポンだけど。
「で、令ちゃんはどうなの? 祥子さまと同じく、世界の果てまで駆けつけてくれるの?」
由乃さまの声に、ふと我に返ると、いつの間にか由乃さまの横には令さまが。
その隣では、令さまのお姉さまである鳥居江利子さんが、お二人を興味津々ってお顔で眺めていて。
「世界の果てって、【自転車】じゃ無理だよ。自転車じゃ」
令さまの答えに、由乃さまの癇癪度がアップした。
「でも、K駅までは迎えに来てくれたわよね?」
更に火に油を注ぐ江利子さん。……こんな性格だったっけ?
確か、沙紀さんの妹として天野家に遊びに来たときには、こんな感じじゃなかったような気もしないでもないけれど……って、さすがに昔のことだから、よく覚えていないな。
「キーッ! 令ちゃんのバカっ!」
よ、由乃さま? 仮にもお姉さまに向かってバカとは……って、都もヒドいこと言ってるけれど。
「あはは、君たちも相変わらずで、お姉さんは嬉しいよ」
「誰がお姉さんなんですかっ! 誰がっ!」
「え? イヤだなぁ、由乃ちゃん。この私、佐藤聖さんに決まってるじゃない」
……聖さんって、ひょっとして空気読めない……じゃなくて、読まないんだね。
きっと……。
「聖ちゃん、本当に変わったわね……」
人垣の一角で、お姉ちゃんの声がした。
「ね、言った通りでしょ? まあ、稀に止まんなくなるのが玉に瑕だけどね」
それに、しのぶさんが嬉しそうに答える。
てか、本当に止めなくて大丈夫なのかなぁ?
江利子さんとの相乗効果で、由乃さま、顔を真っ赤にして、これまでになく怒っていらっしゃって。
でも、そんな都の思いを吹き飛ばし、聖さんを凍結させたのは、まるで親の敵のように玉砂利を踏みしめる、この場に近づいてくる強烈な足音だった。
「聖っ!」
これぞ、青天の霹靂。
リリアン生徒の海を見事に割って、こちらへと向かってくるなり雷を叩き落とした、まるでモーゼのようなお方は、黒を基調とした革製のライダースーツに身を包み、フルフェイスのヘルメットのあごの部分を無造作に掴んで……おもむろに投げつけた。
「あ、危ないって。蓉子」
「まだバイク投げないだけ、ありがたいと思いなさいよ」
髪を肩で切り揃えた知的な美人さん──水野蓉子さんは、お姉ちゃんの妹の鮎美さんの更に妹に当たる人で、面倒見がよくて都もよく遊んでもらった覚えがある。
でも、こんなに怒った顔を見るのは、やっぱり初めてで。
「う~、蓉子だとマジにやりかねないから、怖いな」
バイク投げ、ですかぁ?
「あのねぇ、聖。本気で怒るわよ?」
「いや、もう勘弁」
「大体、何よ。祐巳ちゃんだけじゃなく、お姉さまや紅薔薇さまの名前まで出して私を呼びつけるなんて……あら?」
少し落ち着いたのか、周りを見る余裕が出来た蓉子さん、真っ先に都を見つけてくれた。
「あ、都……ちゃん? 都ちゃんよね? いやだ、懐かしいわぁ」
「あの、ご無沙汰してますっ」
「その制服……都ちゃんも、もう高校生なのね。どう? リリアンは楽しい?」
そういう蓉子さんからは、ふわっとフローラルの【香水】の香りがした。
高校を卒業されて二年目、既に大人の風格が漂っていた。
聖さんたちと同い年には、とても思えない……。
「えっと、都ちゃん? 何か?」
「え? え? な、何かって? な、何でもないです」
「そう? ならいいけど」
蓉子さんに笑顔が戻った。ヤバかった……。
「ところで、紅薔薇さま──お姉さんは、お元気?」
「お姉ちゃんなら、そこに。鮎美さんも」
「え? お姉さまも?」
振り返る瞬間、蓉子さまの顔が蕩けたように見えたのは、気のせいではない。
お姉さまを目の前にした『妹』の顔が、そこにあった。
姉妹(スール)って、いいなぁって思える瞬間だった。
そんな中、聖さんがぽつりと一言。
「で、蓉子さん。私ゃいつまでメット持ってりゃいいのかね?」
え~、と、祐巳さまが声を上げた。
その途端、視線が祐巳さまに集中し、人垣の外周までもが静まりかえった。
「改めまして。ごきげんよう、お姉さま方」
大仰しく芝居じみた祐巳さまの口調に、お姉ちゃんたちも祐巳さまに集中した。
「私の口からではありますが、紹介させて頂きます」
お姉ちゃんたちにぺこりと頭を下げ、祐巳さまは続けた。
「まずは、黄薔薇(ロサ・フェティダ)・島津由乃」
由乃さま、一瞬祐巳さまと視線を合わせ、一歩前に出て、そして頭を下げた。
「つぼみ(ブゥトン)・松平瞳子。妹(プティ・スール)・前橋歌乃」
由乃さまに続き、瞳子さまも歌乃ちゃんも、ぺこりと。
「次に、白薔薇(ロサ・ギガンティア)・藤堂志摩子。つぼみ・二条乃梨子」
ここまでくると、都のみならず人垣にも、祐巳さま──山百合会が何をしているのかが、わかった。
「紅薔薇のつぼみ・細川可南子」
都の隣のままで、一歩前に出ることなく、可南子さまはその場で会釈した。
「最後に、私が紅薔薇(ロサ・キネンシス)を務めます、福沢祐巳です」
一瞬、祐巳さまの視線が、可南子さまと絡み合った。
「以上が現状、当代山百合会幹部です。以後お見知りおき下さいませ」
そう、深々と頭を下げる祐巳さま。
そして、えっ? と、お姉ちゃんを除く山百合会OGが都を凝視したが、都は胸元で手を横に振るのが精一杯だった。
「さて」
お姉ちゃんの言葉に、祐巳さまが顔を上げた。
「祐巳さん、丁寧な紹介、ありがとうね」
「いえ、恐れ入ります」
「では、こちらも……簡単に紹介するわね」
面々を見渡し、お姉ちゃんは苦笑した。
まあ、称号を言えば、みんな元薔薇さまになってしまうのだから。
「えっと、先代の黄薔薇・支倉令ちゃん」
ちゃん付けされて面食らう令さまと、プッと吹き出す由乃さま。
「その姉たち、鳥居江利子、小池田沙紀、諏訪部美月」
呼ばれた順に会釈していくと、人垣から溜め息にも似た嬌声が上がった。
「次に先代白薔薇……先々代になるのかしら? 佐藤聖……ちゃん付けする?」
「いえ、結構」
とんでもない、と首を振る聖さん。心底イヤそうだ。
「その姉たち、秋野真冬、有馬しのぶ」
くすくす笑いながら、お姉ちゃんが続けた。
「次、先代紅薔薇・小笠原祥子ちゃんと、その姉たち、水野蓉子、新島鮎美」
お姉ちゃん、こほんと咳払い。みんなを見回し、いきなり爆弾を投下した。
「そして私、九尾沙耶子(ここのおさやこ)。旧姓は天野。そこの天野都の実の姉です」
えーっ?! と、人垣の中から声がした。今度は喚声ともいえる、叫び声。
確かにお姉ちゃんとは天と地ほどの差があることは、都自身がよくわかっているのだけれど、ここまであからさまに指摘されると、やっぱりへこんでしまう。
そんな都を見て、くすりと笑う可南子さま。
でも、その笑顔、何処か寂しげだったのは、気のせいだったのだろうか?
「ゆ、祐巳さん、お願いがあるんだけど」
ついに痺れを切らした感のある蔦子さまが、祐巳さまのところにくるなり直訴した。
「写真、撮らせて」
「いきなり単刀直入な……って、蔦子さんにはそれしかないか」
「そんな、祐巳さんも酷いなぁ」
「だって、蔦子さんからカメラを取ったら、何が残るの?」
写真を取(撮)ったら、と言わないところがミソである。
「カメラちゃんも、よく今まで我慢したよね。それとも、もう何枚か撮った?」
笑いながら、聖さんが言う。
「そんな……聖さま、酷いです」
「あはは、ゴメンゴメン。これで許してちょ」
蔦子さまに手刀を切り、聖さんはお姉さま方に向き直った。
「お姉さま方、みんなで記念写真を撮りませんか? せっかくですし」
お姉ちゃんたちは一瞬きょとんとするも、可愛い妹たちと写真を撮ることに異存はないらしく、二つ返事でOKが出た。
「せ、聖さま、ありがとうございます~」
「ん。その代わり、綺麗に撮ってよ?」
返事をする間も惜しんだ蔦子さま、カメラを構えたままで親指を挙げた。
そして、蔦子さま個人による記念撮影が、いつの間にか写真部総出のアイドル撮影会の様相を呈していたのは、まあ、いつものことである。
そんな中、一人の生徒がそわそわと、こちらの様子を窺っていて。
「あれ? 静音さん? どうかした?」
どうやら乃梨子さまのクラスメイトらしく、薔薇さま方に何やら進言されたかったらしい。
「祐巳さま、そろそろ時間だそうです」
じゃあ、と、祐巳さまが右手を挙げた。
それだけで、波紋が広がるように、祐巳さまを中心に辺りが静かになっていく。
百人近くが急に静まりかえる光景は、ある意味圧巻である。
「えっと、じゃあ、神楽を見に行きます。こちらの……」
さすがに名前がわからなかったらしく、乃梨子さまが祐巳さまに耳打ちする。
「こちらの、久世静音さんの指示に従ってください」
えーっと反感らしき声もかすかに上がるも、祐巳さまが一睨みして沈静化。
何より当の祐巳さまが率先して静音さまにお伺いを立てていては、この場で彼女の指示を無視出来る者など、リリアンの生徒にいるはずもない。
その後は特に何もなく、全員が神楽殿の前に集まることが出来たのだった。
神楽殿の前に集まったのは、三百人ほどのリリアン生徒と、それを遙かに上回る数の一般の人たち。総勢で千人以上いただろうか。
無形文化財に指定されるだけあって、取材のTVカメラが数台入っていた。
前の方に置かれた長椅子に着席する氏子さんたちは、さすがに物音一つ立てずにじっと神楽が始まるのを待っていたが、そうではない純粋に神楽を見に来た人たち以外の、いわゆる冷やかしのお客さんの多くはほとんどが立ち見で。
リリアンの生徒は、そんな人たちの邪魔にならないようさらに後方に回ることとなった。
それは構わないのだが、人が多ければその分騒がしくて。
観客の中心部の喧騒が、境内を騒然とさせていた。
とてもじゃないけど、こんな状況では落ち着いて神楽を見ていられないな……と思った矢先のこと。
「……ねえ、何か聞こえない?」
誰彼ともなく、そんな声が聞こえてきた。
確かに都の耳にも、何か獣の呻くような声が聞こえていた。
「あ、これって……?」
「しっ。静かに」
窘めたのは、乃梨子さま。
思わず首をすくめた都だったが、そんな都の肩を、隣にいた可南子さまがそっと抱き寄せてくれた。
「落ち着きなさい」
「あ、は、はい……」
乃梨子さまは三列ほど都たちの前にいたので、都が乃梨子さまに叱られるはずがなかったのだ。
女性の声にしては低すぎる、男性の裏声のような呻き声は、よくよく聞けば意味のある言葉として、神楽殿の中から発せられていた。
おおっ、と前の方から声がする。
舞台中央に、巫女装束のハルちゃんが出てきたのだ。
途端に呻き声――祝詞が大きくなる。
あの声、ハルちゃんが出してたんだ……。
一瞬、観客(特に中央部分)がざわついたものの、それもすぐに沈静化した。
千人もの人たちが、呼吸をするのも忘れたように、みな押し黙ったからだった。
祝詞に合わせて、ハルちゃんが舞う。
手に持つ鈴を剣のように振ると同時に、宮司さまの打つ鼓の音が重なる。
カーンと金属のような音と、ジャリッと鳴る鈴の音が、まるで時代劇の効果音のように聞こえたのは、きっと気のせいではない。
何故ならその瞬間、この境内の空間ごと、まさにこの世界から切り取られて別の次元に跳ばされたような感覚を、ここに集まる全ての人が感じたからだった。