Heaven's Gate #10

 


 その日の昼休みの、二年桜組。
 朝のゴタゴタで、結局授業を二時限すっ飛ばした白薔薇のつぼみこと二条乃梨子さまは、食事も取らずに友人のノートを写していた。
「しかし、大変な事になったねぇ。紅薔薇のつぼみも……」
 乃梨子さまの前の席で後ろ向きに座り、茶々を入れるクラスメイト。
「ノート貸してくれるのは、ありがたいけどさぁ……」
 乃梨子さまは、ふと目を上げて件のクラスメイト、久世静音(くぜしずね)さまを見やった。
「静音さん、前向いて食べた方が、いいよ?」
「ん、ああ、お構いなく」
 さすがにパン屑をノートの上にこぼさないよう、若干離れてロールパンを齧っている静音さま。
 聞こえよがしに溜め息を吐き、乃梨子さまはノート写しに没頭した。
「で、どうなるのさ? 新聞部」
「え?」
 思わずノートを写す手が止まる乃梨子さま。
「新聞部の連中は、ただ右往左往してるだけだし。デマなんでしょ? これ」
 と、静音さまは今朝配られたリリアンかわら版の号外を、ペチペチと手で叩く。
「……私が何も言えない事、わかっていて訊いてる訳ね?」
 まあね、と、紙パックの『ソイ・ラテ』をすすって、静音さまはパンの袋を折り畳んでいく。
 ソイは英語で大豆の事。そしてラテはカフェ・ラテのラテ。
 イタリア語でミルクの事。
 だから『ソイ・ラテ』とは、豆乳で出来たカフェオレ……だと思ったら、なんとこれは、豆乳のミルク割りだった。
 確かに、言葉としては正しいのだが、飲み物としてはどうだろうか?
 それに気づいた乃梨子さまは、やっぱり渋い顔で静音さまを見ていた。
 そんな事は一切気にしない静音さまは、二本目のロールパンに手を伸ばす。
「な、何? その『小倉&マーガリン』ってのは?」
 さすがに今度は、思わず声を上げた乃梨子さま。
 静音さまはパンを千切り、乃梨子さまに手渡した。
「あ、ありがとう……」
 長めのロールパンの中央に切れ目があり、そこに何かクリームが挟んである……タイプのものと同じなのだが、さすがにこの場で割って中身を確かめるのは、少々はしたない。
 だから乃梨子さまは、中身も見ずにパンを口に放り込んだ。
 マーガリンの適度な塩分が、小倉小豆の甘さを際立たせている。
 ホイップされているから、それほど油っぽく感じない。
「どう?」
「目一杯ミスマッチ……だけど、なんだかいいね、これ」
 さすがに一本全部は食べられないけれど、と、乃梨子さまは笑った。
「やっぱり乃梨子さんって、ミスマッチ、好きよね?」
「えっ?」
「お姉さまの白薔薇さまは、お寺の娘にして敬虔なクリスチャンで。そして妹は、なんと神社の巫女と来た」
「いや、まだ妹じゃないし……」
 妹になってくれないかも──という言葉は、どうにか飲み込んだ。
「そう? でも、見に行くんでしょ? 明々後日の奉納神楽」
 どうして、それを……って顔をした、乃梨子さま。
 それを見取って、静音さまが溜め息を漏らした。
「私の家、真上神社の氏子だよ? あそこの神楽、無形文化財に指定されてるとか何とか……あれ? 乃梨子さん?」
 青い顔をした乃梨子さま、机に突っ伏していた。
「……無形文化財? やっぱ、無理だよ……そんな子、妹にするなんて……」
 写し終わったノートをひらひらとさせ、乃梨子さまは静音さまを見上げた。
「乃梨子さんにお似合いだと思うけど? さすがは将来の薔薇さまって感じでさ」
「だって文化財だよ? オリンピックの金メダリストを妹にするようなモノだよ」
「何を仰いますやら。乃梨子さんだって、負けず劣らず大スターじゃないの」
「……リリアン限定で、ね」
 受け取ったノートを丸めて、静音さまが教室の扉を指した。
 扉の方から近づいてきたのは、自他共に認める乃梨子さまのファンである、二年桜組のクラスメイト、真田芳美(さなだよしみ)さま。
 そこそこ大きな企業の重役のお嬢さまで、幼稚舎からのリリアン通いは伊達ではなく、お上品、かつ物腰柔らかく、典型的なリリアンの模範生でもいらっしゃる。
 純粋培養のお嬢さまは、だから『毛色の変わったもの』に目がないのだ。
 乃梨子さまには、失礼な表現なのだが──。
 芳美さまが二年桜組となって、乃梨子さまのクラスメイトとなられてからは、それまでの穏やかさが一変して、積極的になられた。
 山百合会で何かと忙しい乃梨子さまに代わって、クラスでリーダーシップを取るようになったのだ。
 そしてその分、乃梨子さまと仲良くなった……というわけだ。
「お話中のところ、ごめんなさいね。乃梨子さん、静音さん」
 結局、乃梨子さまの席までやってきた芳美さま、乃梨子さまに声をかけた。
「あ、はい、何でしょう? 芳美さん」
「妹さんが、いらしてるわよ? 乃梨子さん」
『妹……』
 思わずハモる、乃梨子さまと静音さま。
「ええ、春海さん……と仰ったかしら? 可愛いわよねぇ、彼女。敬愛するお姉さまと同じ髪型にするなんて、なかなか出来ない事だわ」
 などと、ウットリとされているものだから、乃梨子さまも仕方なしといった表情で席を立たざるを得なかった。
「ああ、ありがとう、芳美さん」
 席を立ち、教室後方の扉へと向かう乃梨子さまを見送った芳美さま、ふと静音さまに向き直った。
「ねえ、静音さん。乃梨子さんと、何を話していらしたの?」
「話っていうか、ノート貸してただけよ。今朝、山百合会がゴタゴタしてたでしょう? だから……」
「ああ、紅薔薇さまのお家騒動……」
「あと、これかな?」
 と、差し出したのは、食べかけのロールパン。
「これ……は?」
「小倉ネオ。乃梨子さんも気に入ってたみたいだよ? つまんでみる?」
「乃梨子さんが……え、ええ、頂こうかしら?」
 立って食べる訳にも行かなくて、乃梨子さまの席に腰を下ろした芳美さま、分けられたパンを口へと──。
「……どう?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる静音さまに、パンを味わった芳美さまも、にっこりと優雅に微笑を返した。
「いいわね、これ。なんて名前なのかしら?」
 その後、二年桜組を中心に妖しげなロールパンが一大旋風を巻き起こした──のだが、それはまた別のお話。


 廊下で待っていたハルちゃんは、そわそわと彼女にしては珍しく落ち着きがないように見えた。
 まあ、敬愛する上級生に接する下級生の行動なんて、姉妹であってもなくても、それほど大差はない。
 しかも、手には可愛らしいお弁当の包みを持って。
 そんな彼女の行動は、だからきっと『姉を待つ妹』の姿にしか見えないだろう。
 そして、彼女のお姉さまと噂されるのは──。
 それを知ってか知らずか、ハルちゃんの周りを遠巻きに、ギャラリーが囲んでいる状況だったのだ。
「お待たせしたわね」
「あ、いえ。こちらこそ、お呼び立てして申し訳ありません」
 ぺこりと可愛らしく、それでいて深々と頭を下げるハルちゃんに、周りのギャラリーから、ほうっと溜め息が漏れた。
 それが耳に入ってか、ちょっぴり渋い顔をした乃梨子さまだったが、ハルちゃんが顔を上げるまでには、いつものクールなお顔に戻っていた。
 そして、このままハルちゃんの顔を眺めていたいと思った乃梨子さまだったが、残り半分をそろそろ切ろうかというお昼休みを、それで費やしてしまっても仕方ないと思い直し、乃梨子さまの方から話を進める事にした。
 このままでは、下級生は上級生の顔を見てはモジモジする……の繰り返しになる事に、乃梨子さまも経験上、よくわかっていたから。
「ところで、ハル。何の用なの?」
「あ、はい。実は月末、三日後なんですけど、私、神社で奉納神楽を舞うんです」
「……ええ、知っているわ」
 意を決して口にした告白だけに、ハルちゃんも緊張していたけれど、乃梨子さまの言葉に表情がパッと華やいだ。
「あの、お暇だったら……で、いいんです。見に来て頂けませんか?」
「貴女は……」
「はい?」
「本格的に、巫女になる決心をしたのね?」
 表情が暗く、重くなる乃梨子さまを、きょとんと見つめるハルちゃん。
「えっと、私、すでに巫女ですよ? 私の家系、生まれながらの巫女血族ですし」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
 乃梨子さまの意図がわからず、更にきょとんとするハルちゃん。
 そんなハルちゃんの前髪を、乃梨子さまがさらりと掬い上げた。
「……ええ、わかったわ。三日後、予定を空けておくわ」
「本当ですか? 嬉しいな。私、頑張りますから」
 手に持ったお弁当箱を放り投げかねない勢いで、その場ではしゃぐハルちゃんをキッと視線だけで制する乃梨子さま。
「ハル、そのお弁当は? いつものピクニックセットじゃないわね?」
「あ、はい。歌乃っちがアレで、みやっちがコレで。とてもみんな揃って昼ご飯なんて状況じゃなかったものですから……」
 結局歌乃ちゃんは薔薇の館から、都は古い温室から、一歩も出る事はなかった。
 だから、一年桃組での『後始末』は、全てハルちゃんがやってくれていたのだ。
「ですから、みやっちは紅薔薇さまにお願いして、ついでにお弁当を交換という事になりまして」
「それ、祐巳さまのお弁当……なの?」
「いえ、可南子さまの物です。さすがの歌乃っちでも、瞳子さまの前で可南子さまのお弁当は開けられないでしょうし」
「なるほどね。で、ハルはどうするの?」
「このまま教室に戻って、これを食べます。証拠隠滅しておかないと、みやっちに見つかったら、それはそれで大変な事になりますから……」
「ふむ……」
 何やら考えた乃梨子さま、ハルちゃんに言った。
「じゃあ、私と一緒に食べる? お昼ご飯」
「え? いいんですかぁ?」
 もう顔がトロトロに溶けているハルちゃんに、乃梨子さまは苦笑した。
「ええ、私もお昼はまだだから。ちょっと待ってなさい」
 乃梨子さまは教室にお弁当を取りに戻り、再び廊下に出たところで何やら視線を感じた。
 だから、ハルちゃんに告げたのだった。
「ミルクホールで、場所を取っておいて。それと烏龍茶一つ買っておいて。貴女も何か飲み物を買ってなさい」
 小銭入れを受け取ったハルちゃんは、ついでに乃梨子さまのお弁当も預かって、喜び勇んでミルクホールへと向かった。
 まるで、ボールを投げられた仔犬のように。


「う~、鯨岡春海め。私の乃梨子さまに、馴れ馴れしい……」
「こら。天下の往来で、不穏な発言をするでない」
 丸めた雑誌でポカリと頭を叩かれたのは、一年松組、河野弘美(かわのひろみ)さん。
 一年桃組の夏目史香さんと並ぶ、写真部のルーキーでエース候補──なのだが。
 どちらかといえば、報道というよりは隠し撮り専門で、その隠れた才能にはあの武嶋蔦子さまも舌を巻くほどの腕前だとか。
 へ? 隠れた才能ではなく、隠れる才能──ですか?
「うぐっ、笙子さま。結構痛かったっす。今のは……」
「して、何を見てるのかな? カメラも構えずに」
 まるで押し潰すかのように、弘美さんの上にのしかかる笙子さま。
「ああ、乃梨子さんか。貴女も好きだねぇ、本当に」
「当たり前ですよ。わざわざ乃梨子さまを追って、リリアンに来たのですから」
「そんな事も言ってたわね。ご苦労な事で……おっと」
 パタパタと、ハルちゃんが廊下を駆けて行くのを見送った写真部のお二方、視線を元に戻すと、目の前に仁王立ちした乃梨子さまが立っていた。
「……何してるかなぁ、そんなところで」
「あ、あはは、乃梨子さま、ごきげんよう……」
 引き攣った笑いの弘美さんを一瞥し、乃梨子さまは笙子さまに向き直った。
「笙子さんまで、覗き見? 感心しないな」
「ははは、結果的にそうなっただけよ。さて、乃梨子さんに話があるんでしょ?」
 笙子さま、話の振り逃げ。
「ん、何かな? 私も、あまり時間ないんだけど……」
 責めていても仕方ないと悟ったのか、乃梨子さまは弘美さんに話を促した。
「あの、乃梨子さま。私を妹にして下さいっ!」
「ゴメン、ダメ。無理」
「うわっ即答。どうしてですか、乃梨子さま。せっかく千葉から追って来たのに」
「いや、出身中学一緒でも、妹にする気はないから」
「やっぱりアイツですか、鯨岡春海。あんな、親のいない子が……」
『えっ?』
 つい口を滑らせてしまった弘美さんだったが、それをさらりとスルーしてくれる乃梨子さまではなかった。
 同じ中学の先輩後輩、厳しい(視線のみの)追及に負け、弘美さんは知る限りをポツリポツリと話すのだった。


 ハルちゃんのお母さんは、自分が巫女となって神社に縛られる事を嫌って、若い頃──今のハルちゃんの年頃──から、不特定多数の男性と関係を持った。
 一般的な巫女さんとは違い、ハルちゃんの家は血統を重んじる巫女家系なため、男性と性関係を結んだだけでは巫女を辞める事は出来なかった。
 しかし、妊娠・出産となると、話は違ってくる。
 御子を身籠る──つまり、神を胎内に宿す事になるのだ。
 生まれてきた子が男なら神主に、女なら巫女に。
 そして、ハルちゃんを産んだ直後、お母さんは失踪した。
 数年後、妻を亡くした弘美さんのお父さんと出会い、そして結婚。
 弘美さんは生まれていたため、継母となるのだが、家族関係は良好だそうだ。
 一方、ハルちゃんはといえば、父親がわからないためか、本家から血筋的に遠く離れた神社に、養女として出される事となった。
 だからハルちゃんは、自分の両親の事を知らず、真上神社に生まれた天性の巫女として生きていく事を、運命と決めて受け入れているのだ。
 ちなみにハルちゃんのお母さんは、弘美さんを連れて何度か真上神社へ様子を見に行ったらしいが、それはハルちゃんの与り知らぬところであり、弘美さんにとっても、ただ疑問だけが残った幼少の記憶だった──。


 弘美さんの話が終わると、案の定、乃梨子さまも笙子さまも青ざめていた。
「弘美、それ……いや、何でもない」
 笙子さまが口止めするまでもなく、こんな事は誰にも言えない。
 もちろん、乃梨子さまも、笙子さまも、他言なんて出来ない。
「それ、ハルに、言うつもりなの?」
 首を横に振る弘美さんに、乃梨子さまは静かに頷いた。
「そうして欲しいわね。まあ、こんな事、他人にゃ言えないでしょうけど……」
 そして、軽く深呼吸を一回。
「さて、それでは、失礼するわ。ごきげんよう」
 くるりと踵を返し、颯爽と歩き去る乃梨子さま……の足取りは、少々覚束なかったりして。
 そんな乃梨子さまを見送った写真部のお二方、互いに顔を見合わせて。
「ううっ、即答で拒否されてしまった……」
「……仕方ないね。乃梨子さん、もうすっかり『姉』の顔してたもの」
「じゃあ、乃梨子さまの『妹』は……」
「憶測はやめよう。私たちは、この目とカメラで捉えたものだけ、信じればいい」
 ポンと弘子さんの肩を叩いて、促すように笙子さまは歩き出した。
 渋々といった感じで、その場をあとにする弘美さんだった。


 三日後。
 さすがに、弘美さん──ハルちゃんのお母さんの話は、噂の欠片もなかったものの、ハルちゃん本人の話題で、学園中は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
 何しろ、新聞部の活動自粛で、ネタ元の『リリアンかわら版』が手元にない。
 聞きかじった噂だけが、尾びれや背びれにエラまで付けて、スイスイ自力で泳ぎ回っているのだから。
「ねえねえ。聖那さんは、どうされますの? 今日の放課後」
 クラスメイトの井戸端会議の輪の中で、普段は大人しく目立たない部類に属する彼女、深山聖那(みやませいな)さんも、今日は目の色を変えていた。
 敬虔なクリスチャンで、将来はシスターになる夢を抱いてリリアンに入学したという彼女は、ミサの時にお越し下さる神父さまの教会の寄宿舎から通っている。
「そうね。ハルさんがリリアンにいらしたのも、他教を体験されるためだと聞いていますし。私もよきシスターとなるために、見聞を広めなくては……ね」
「じゃあ、ご一緒しましょう。楽しみですわね」
 ……などと、あちらで話が上ったと思ったら。
「神楽、か。日本古来の伝統芸能……よね?」
「また、彩愛ったら。ホント音楽の事しか頭にないのね?」
 軽音楽部の部室では、リリアンにこのバンドありと、学外でも名高いロックバンド『華音(カノン)』のメンバーが勢揃いしていた。
 新宿のライブハウスから、熱心なラブコールをしきりに受けているのだが、如何せんリリアンはバイト禁止。ライブハウスでの演奏は出来なくて。
 だから『華音』の活動は、学園祭に限られてくる。
 ただ、卒業された先輩方は、みな音楽業界で活躍されている事もあり、軽音楽部員ならずとも『華音』に入りたがるのだが、部内オーディションに合格した者しか入る事の出来ない、超難関。
 狭き門をくぐり抜けた乙女たちは、その腕も確かで、薔薇さま方とは別に、全校生徒の憧れでもある。
 その中の一人、一年にしてメンバー入りを果たしたキーボーディスト、一年桃組の佐藤彩愛(さとうあやめ)さんが、ポツリと呟いた。
「どんなリズムなんだろ? ハルさんに訊いとけばよかったな」
「え? 彩愛、貴女、鯨岡春海さんと知り合いなの?」
「ええ、クラスメイトですし。無二の親友ってほどじゃないですけど、彼女、結構人懐っこいから、クラス全員が友だちみたいなもんですね。それが?」
「彼女『白薔薇のつぼみの妹』候補の最有力じゃん? かわら版も休刊で、その手の情報入って来ないんだ」
「どうなるんだろうね、新聞部」
「さぁ……。それより放課後、その神社行く人っ!」
 全員が手を挙げた。
「じゃあ、決まり、だね」


 その騒ぎは、学園内だけでは収まらなかった……。


 昼下がりのK駅北口『カフェレスト・task』は、平日ともあってお客さんの入りは皆無。のんびりとした空気が漂っていた。
 元々通りを一本奥に入った場所だけに、ランチタイムと夕方以降のご飯時を除けば、落ち着いた雰囲気が味わえる、知る人ぞ知る隠れた名所という訳だ。
 そんなお店に、お客さまが一人──。
「いらっしゃいませ……何だ、美月か」
 カランとドアベルの音がして、入店してきたのは、お姉ちゃんの親友で同級生の諏訪部美月(すわべみづき)さん。
 短大を卒業されて、今は旅行代理店で働いている。
 ただ、このお方、学生時代から何でも出来るスーパーレディで、あまりに選択肢の多い進路を、あみだくじならぬダーツで決めてしまった、とんでも~なお方だ。
 円グラフ状に進路を書き、画鋲で壁に張りつけクルクル回し、それをダーツで射抜いたらしい。
 何故か、その選択肢の中に『パジェロ』とか『たわし』とか、書かれていたらしいけれど、それに当たったら、美月さんは一体どうするつもりだったのかな?
「何だ、は何よ。随分とご挨拶ねぇ、沙耶子」
「あはは、いらっしゃいませ。サボり?」
「バカ言わないでよ。仕事よ、仕事。見てわからない?」
 OLさんが休憩に来た……としか、思えないのだが。旅行のパンフを持って。
「ん、奥のボックス席、使ってよ」
「さんきゅ。あ、ついでに、何か食べるもののヨロシク。昼、食べられなかったんだ。コイツのおかげで……」
 美月さんが抱えた大判の封筒には、パンフレットがぎっしり詰まっていた。


 しばらくして、カランとドアベルの音。
「いらっしゃいませ。おや、鮎美?」
「ごきげんよう、お姉さま」
 リリアン高等部時代、お姉ちゃんの『妹』だった新島鮎美さんが、ご来店。
「久しぶりね、鮎美。私の結婚式以来じゃない? 元気してた?」
「はい、おかげさまで。ところでお姉さま、美月さま……は?」
「ああ、貴女か、美月の客は。何処か行くの?」
「ええ、まあ。今のうちに卒業旅行という事で」
 お姉ちゃんの一年歳下だから、鮎美さんは現在大学三年。
 就職活動の前に……ってことらしい。
「なるほど、楽しんでらっしゃい。美月は奥にいるわよ」
「はい、お邪魔します」
「ははは、うちは喫茶店だってば……あれ?」
「……ごきげんよう、紅薔薇さま。お邪魔します」
 鮎美さんに続いて、美月さんの『妹』の小池田沙紀(こいけださき)さんが、お姉ちゃんの前を通り過ぎた。
「沙紀……? それに真冬まで?」
 同じくお姉ちゃんの親友、有馬しのぶさんの『妹』の秋野真冬(あきのまふゆ)さんも、ぺこりと会釈をして通り過ぎていく。
 どうやらその旅行、この三人で行くようだ。
「相変わらず、仲がいいのか何なのか。あ、そうだ……」
 何やら閃いたお姉ちゃん、いそいそと電話口へと向かうのだった。


「ただいま~」
 と、都が帰った時には、ボックス席に六人が固まって、喧々囂々、和気藹々?
 その中で、お姉ちゃんが席を離れ、都を出迎えてくれた。
「おかえり、都。可南子さんも、毎日すみません」
「あ、いえ、私は……」
 あの日から、都の登下校には、ずっと可南子さまが付き添ってくれていた。
 それだけじゃなく、休み時間であったり放課後であったり、ふと気がつくと、都の視界の中には、いつも可南子さまの姿があった。
 監視……というよりは、むしろ好奇な視線から都を守るため。
 可南子さまがいらっしゃらない時は、紅薔薇さまの姿をよく見かけたし、そうでなければ、都はハルちゃんや歌乃ちゃんと一緒にいた。
 だから都は、守られているんだ、と感じているし、みんなに対してありがたいとも思っている。
 生活指導室に呼ばれたあの日から、たった数日で都が立ち直っているのは、そんなみんなのおかげだからと、感謝の気持ちを忘れていない。
 いつか、この恩を返さねば。
 都は、心に誓っていた。
「本当にお世話になりっ放しで。何か恩返し出来るといいんですけど……」
 と、お姉ちゃんは都を睨む。
「いえ、本当にお構いなく。私が好きでやっている事ですので……」
 可南子さまの言葉の『好きで』に反応して、都の顔は真っ赤になった。
 そして、それを見逃さない、お姉ちゃんの『仲間』たち、こぞって席からこちらに出て来たのだった。
「ごきげんよう、みやちゃん。お久しぶりね」
 口火を切ったのは、誰だったか?
「うわ、懐かしいわね、リリアンの制服。みんな着てたんだねぇ、これ……」
 と、会社の制服に身を包んだ美月さんが言った途端、都はみんなにもみくちゃにされた。
「にゃっ! や、やめてくださいよぉ~」
「あはは、みやちゃんが可愛いから、いけないのさ」
「し、しのぶさん、ちょっとタイム。スカートはやめて……」
 そんな中、都の身体が、表情が凍り付く、小さな物音がした。
 可南子さまが『こほん』と、小さく咳払いをされたのだった──。
「あ、あ……可南子……さま?」
 恐る恐る声をかける都に気づいて、取り敢えずみんなが静まってくれた。
「えっと、貴女は?」
 口を開いたのは、美月さん。
「これは、ご挨拶が遅くなり、失礼致しました。私、リリアン女学園高等部二年、細川可南子と申します。以後お見知りおき下さいませ」
 あくまで優雅に、あくまで気高く。
 都は、そんな可南子さまの仕草に、ただウットリとしか出来なくて。
 以前、面識があったと思われるしのぶさんが、ニヤニヤしてるものだから、美月さんも何やら感づいた様子で。
「ごきげんよう、可南子さん。私は諏訪部美月。沙耶子やしのぶと同級よ。そしてこの子達は、私たちの妹。新島鮎美、小池田沙紀、秋野真冬。紅、黄、白の順ね」
 それぞれ、よろしくだの何だの、挨拶を交わしているのだが……。
「して、可南子さん。貴女は、何者?」
 面白いオモチャが手に入った子供のような顔で、美月さんはニヤニヤと可南子さまを見つめるけれど、さすがは可南子さま。一向に動じなかった。
「私は、何者でもございません。ただ、私の姉が、今年度の紅薔薇なだけです」
 あくまで毅然とした態度を崩さない可南子さま。
 あはは、という笑い声は、別の方向から聞こえた。
「一本取られたね、美月。さすがは聖ちゃんを柔和にさせた子の『妹』だ」
『え?』
 これには、お姉ちゃんまでも声を上げていた。
「聖ちゃんって、あの聖ちゃん? 真冬の妹の佐藤聖?」
「そう、美月にも見せてやりたかったよ。聖ちゃんの笑顔をさ」
「……聖の、笑顔?」
 姉の真冬さんも、ほとんど見た事がないという。
 可南子さまは『聖』という言葉に、ちょっぴり渋い表情で。
「担いでるんじゃないの? あの聖ちゃんの笑顔なんて、想像出来ないわ」
 腰に手を当てて仁王立ちのお姉ちゃん、しのぶさんを睨みつけていた。
 そんな中、新たなお客さま──カップルのようだ──が、ご来店。
 カランとドアを開け、入ってきたのは、何処か日本人離れした顔立ちの美人さんと、もう一人は小柄な女の子……とはいえ、都と同じくらいか。
「ホント、ここのコーヒーは美味しいから。祐巳ちゃんにも飲めるよ」
「そんな、聖さま。それじゃまるで私がコーヒー飲めないみたいじゃないですか」
(聖……さま?)
 みなが一様に引っかかるキーワード。
 まずは接客を、と、動いたお姉ちゃんが、その場で固まった。
「いらっしゃいませ……聖ちゃん?」
『わ、紅薔薇さま!』
『へ?』
 紅薔薇さまっと叫んだのは、聖ちゃんと呼ばれたお客さまと、都。
 そして、何処か間の抜けた返事をしたのは、お姉ちゃんと、紅薔薇祐巳さま。
『聖ちゃん?!』
 慌てて出て来た五人組。
 それを見て、聖さんが逆に驚いた。
「げ、お姉さま? 黄薔薇さまに白薔薇さままで……同窓会やってるんですか?」
「違うわよ。でも、久しぶりよね。元気そうでよかったわ」
 そっと聖さんの頬に手を添える真冬さん。
 お姉ちゃんが在学中、一年生だった聖さんは、あまり山百合会の活動には参加していなかったようで、都とはあまり面識はなかった。
 鮎美さんの妹の水野蓉子さんなら、都もよく見知っているのだが。
 そして、さっき都がもみくちゃにされたのと同じように、今度は聖さんがみんなのオモチャにされていた……。


 ボックス席でOGが大騒ぎしてる頃、現役生の紅薔薇さま──祐巳さまと可南子さま、そして都はカウンター席で並んでお茶してた。
「ねえ、みゃあちゃん。今回の事、私に任せてくれる?」
「え、えっと……」
 祐巳さまの言葉に、都はふと隣の可南子さまの顔を見た。
 可南子さまは、何も考えていらっしゃらないのか、それとも都には考え知れない事を思い巡らせているのか、よくわからない表情をされていた。
「……お姉さま」
「何? 可南子」
「そもそも今回の件は、私が標的となっていた事でしょう? それを、関係のない都が的になって、私は……」
「だから貴女は、私に任せる。そうでしょう?」
 可南子さまの言葉を途中で遮って、祐巳さまは強い口調で言い切った。
「う……、わ、私はどうでも構いませんが、都は……」
「都は、何?」
 普段は柔和な祐巳さまの顔が、にわかに険しくなる。
 まるで射抜くように睨みを利かせる眼光は、とても鋭くて、怖い。
 一般の生徒なら、震え上がって何も言えなくなる。
「まさか、可南子。貴女『みゃあちゃんの事は、自分に任せろ』とでも言うんじゃないでしょうね?」
「い、いけませんか? お姉さま」
 さすがは祐巳さまの妹。可南子さまも、負けじと言い張った。
「いい訳ないでしょう。私は貴女の姉だから、貴女の事に顔を突っ込むわよ。口も手も出すわよ。でも、貴女はみゃあちゃんの、何?」
「うっ……」
 姉妹の契りを交わした訳ではない、ただの先輩と後輩。
 それは都にも、痛いほどわかっている。
 だから……。
「わ、私なら、大丈夫です」
 あまりに可南子さまが辛そうなお顔をされたので、つい都は口走ってしまった。
「私は、紅薔薇さまに全てをお任せします。っていうか、私には何も出来ない事ですし、その……」
 勢いで言ってしまったために、後の事など何も考えていない。
 だから都は、言葉途中で口を閉じるしかなかった。
「ん、ありがとう」
 そんな都を、祐巳さまはとても満足そうな微笑で、やさしく見つめるのだった。


à suivre...