Heaven's Gate #8

 


「……あのさあ」
 お弁当のミートボールをフォークでグサッと刺し、黄薔薇さまは若干ムッとした口調で言った。
「何だか、この図式ってさぁ、シンデレラ苛めてる義姉って気がするんだけど」
 ここは、薔薇の館。
 二階サロンの片隅で、都たちはいつものごとく、レジャーシートを広げてプチ・ピクニックのお昼ご飯を食べていた。
 椅子に座れば? という声もあったが、お昼はこうじゃないと落ち着かなくなってしまったのだ。
 たった二ヶ月の事だが、さすがに毎日続けていると、癖になってしまうようだ。
 それに、いくらお招き頂いたとはいえ、薔薇さま方と同席というのは、何となく気が退けてしまうのだ。恐れ多くて……。
「まあ、いいじゃん。彼女たちも、落ち着いた方がいいんだし」
「だってさぁ、祐巳さん。あれじゃあ、借りてきた犬よ? 犬」
 決まったシートの上から、動かない──って事ですか? 黄薔薇さま……。
「ま、気にしない、気にしない」
 歌乃ちゃんが、都たちだけに聞こえるよう、小声で言った。
 さすがは末席とはいえ黄薔薇ファミリーの一員、長姉の言葉にも全く動じない。
 もっとも、歌乃ちゃんと黄薔薇さまは、実の姉妹同然の間柄だからなのかも知れない。都だってお姉ちゃんのお小言は、話半分しか聞かないし。
「でも、微笑ましいわね。おままごとみたいで」
 フォローなのか何なのか、白薔薇さまがにっこりと微笑む。
 そして、まあまあと、紅薔薇さまが割って入る。
「でも、食事はともかく。食後のお茶は、ご一緒してくれるんだよね?」
 にっこりと人懐っこい笑顔で、しっかりと脅しをかける紅薔薇さま。
「そうしてくれないと困るわよ。伊達や酔狂で呼んだ訳じゃないんだからさぁ」
 黄薔薇さまのお言葉に、思わず首を竦める小心者の都だった。


 食後のお茶会は、その場の全員が大テーブルに着いて行われた。
 薔薇さま方三人の正面に都たちが座り、そしてテーブルの脇にはつぼみたち。
 都たち一年生が席を立つ事は許されず、お茶は全て、二年生のつぼみたち三人が用意してくれた。
 だから都は、余計に恐縮してしまい、お茶の味など全くわからなかった。
 大体、リリアン三大美女を前にして、緊張しないで平然とした態度でお茶飲める一般生徒、しかも一年生がいるだろうか? いるなら連れて来て欲しい。
「そう、貴女たちをここに呼んだのは、他でもないの」
 和やかな雰囲気──とはいえないお茶会の席で、黄薔薇さまが口火を切った。
「由乃さんってば、脅しちゃダメだよ」
 クスクスと笑いながら、紅薔薇さまが身を乗り出すように話し始めた。
「あのね、貴女たちに、山百合会の手伝いをしてもらいたいのよ」
『えっ?』
 都は思わずハルちゃんと顔を見合わせ、そして歌乃ちゃんの顔を覗き込む。
 歌乃ちゃんは「私は関与していないわ」と、テーブルの下で手を振っていた。
「そろそろ、学園祭の準備が始まるのよ。まあ、今のところは各部活の活動状況の確認と、各クラスから出されている出し物の草案のチェックくらいなものだけど、
日を追うごとに忙しくなるのは、目に見えているし……」
 紅薔薇さまの顔が、段々と沈んでいく。
 思わず助けなくちゃって気分になるから、不思議だ。
「難しい事を考えないで。要はつぼみたちのアシスタントをして欲しいだけなの」
 白薔薇さまが、言葉を繋ぐ。
 つぼみのアシスタントといえば、実質『妹』みたいなもの。
 現に、黄薔薇のつぼみの妹である歌乃ちゃんは、黄薔薇のつぼみである瞳子さまのアシスタントをこなしている。
 都にとって、可南子さまとお近づきになる願ってもないチャンスなのだが──。
「ねえ、どうかな? お茶飲み放題だし、期限はないけど無報酬だし……あれ?」
「……祐巳さま。それじゃあ、去年私が勧誘された時より、条件悪いんじゃありませんか?」
 急な頭痛に襲われたって感じで、瞳子さまが額を押さえた。
「まあ、お菓子も食べ放題よね。味の保証はないけれど」
 とは、黄薔薇さま。
 何でも紅薔薇さま宛てに、毎日のように誰か彼かが必ずお菓子を差し入れに来るのだそうで、目の前にもクッキーが山のように盛り付けられていた。
「えっと……」
 こちら側からは、ハルちゃんが口を開いた。
 もっとも、歌乃ちゃんが山百合会入りしてるので、他には都しかいないのだが。
「私たちが選ばれている理由を、お聞かせ願えますか?」
 きょとんとする紅薔薇さまに、ハルちゃんは相変わらずズケズケと物を言う。
「山百合会の手伝いなんて、ちょっと募集をかければ、それこそ百人単位で集まりませんか? 高等部より編入した私だって、それくらいはわかりますので……」
 確かに、ハルちゃんの言う通りだ。
 歌乃ちゃんが噛んでないのなら、都がここにいる理由がわからない。
 ハルちゃんは学年総代だから、薔薇さま方の目に留まるのは当然なのだが。
「理由ね、色々あるけれど……」
 腕組みをした黄薔薇さまが、答を返した。
「まず、学業優秀、品行方正」
 ……ますます、都には縁遠くなっていく。
「部活動や委員会活動をしていない事。私たち山百合会幹部の前で必要以上に舞い上がったりしない事。つぼみたちの覚えも目出度い事。そして……」
「そして?」
「一緒に働く事になる歌乃が、何より信頼している事。かな?」
 これは、殺し文句。
 逆に歌乃ちゃんを信頼しているなら、そうまで言われて退けるはずがない。
 そう見越しての、黄薔薇さまの──というより、薔薇さま方の総意か。
「でも、歌乃は反対してるのよね。何を遠慮してるんだか。友達なら、頼ったっていいじゃん。お互い、持ちつ持たれつなんだし……」
 釈然としないって顔で、黄薔薇さまが呟く。
 でも、歌乃ちゃんは、知っているから。
 都たちが放課後、急いで帰宅する、その理由を。
 だから──。
 ごめんね、歌乃ちゃん。
 心の中で呟いて、都は薔薇さま方に向いた。
「ごめんなさい。私は、お役に立てそうもありません」
『えっ?』
 薔薇さまだけじゃなく、可南子さまもが声を出していた。
「いや、役に立つとか立たないとか、そういう問題じゃないんだよ? ただ……」
「ごめんなさい、紅薔薇さま。私は、放課後に居残る事が出来ないんです……」
 歌乃ちゃんの力になれなくて、可南子さまのお手伝いすら出来なくて。
 気を抜くと、泣きそうになる。
 だから唇をぎゅっと噛み締めて、辛うじて持ち堪える。
「私も、家庭の事情で居残りが出来ないのは、みやっちと同じです。すみません」
 ハルちゃんが、都の背中を支えて席を立つ。
「えっと、洗い物は……」
「私がやっておくから。悪かったわね、ハル。みやも」
「ゴメン、歌乃っち。甘えるわ」
 そしてハルちゃんは、都の手を引いて、薔薇の館をあとにした。


「『家庭の事情』かぁ」
  黄薔薇さまが、溜め息混じりに呟いた。
「だから言ったでしょ、由姉ぇ。あの二人は無理だって……」
 都の残した、ほとんど手もつけていない紅茶を飲み干して、歌乃ちゃんは流しへと向かう。
「乃梨子も、まだロザリオ渡せていないのでしょう? それが原因なの?」
「え? あ、うん……」
 急に話を振られて、珍しくうろたえた乃梨子さま。
「そういえば、昔、祥子さまが習い事を全部辞めたって言ってたなぁ。蓉子さまの妹になるために……」
 紅薔薇さまのお姉さま、先代紅薔薇さまの話をしながら、紅薔薇さまは学園発行の生徒名簿をパラパラと見開いた。
 そこには、生徒の名前はもとより、住所や連絡先の電話番号、それに保護者の氏名まで、しっかり記載されている。
「一年桃組、天野都。保護者……九尾(ここのお)輔? え?」
 紅薔薇さまの言葉に、名簿を覗き込む白と黄色の薔薇さま方。
「鯨岡春海、保護者……隠上荒人(いぬがみあらひと)。どういう事?」
 普通なら、この欄は父親か母親の名前が記載されている。
 だから、生徒と保護者の苗字が同じでないと、おかしいのだ。
 大叔母さまのマンションに下宿し、そこから学園に通っている乃梨子さまでも、連絡先は千葉の実家が、保護者欄には父親の名前が書かれているのだから。
 もっとも、緊急連絡先としては、大叔母さまの名前とマンションの住所、そして電話番号がちゃんと記載されているけれど。
 この二人には、そういった『実家』の連絡先が載っていなかった。
「由乃さんの言葉じゃないけど『家庭の事情』かぁ。結構重いかもね、これ……」
「そうね。何かこう、大きな宿題を残されたって感じ?」
「『宿題』で済めばいいのだけれど……」
 薔薇さま方の重い言葉に、その『宿題』を受け取る事となる紅と白のつぼみは、お互いに顔を見合わせていた。


 放課後、薔薇の館に向かう気にはなれなかった、白薔薇のつぼみ──二条乃梨子さまは、慌てて帰宅する訳でもなく、まるで彷徨うようにバス通りを歩いていた。
 そして、ふと気づくと、リリアンからM駅方面に三区間。
 とある神社の境内に、足を踏み入れていた。
「ここ……は?」
 石柱に彫られた『真上神社』の文字。ハルちゃんの『家』である。
 どうやら、無意識に足が向いたらしい。
 鳥居から拝殿へと続く石畳を避けるように、玉砂利の上を歩く乃梨子さま。
 じゃりじゃりと音を立て、その存在を誰かに気づいてもらいたがっているようにも見えた。
 でも、一歩外へ出ると確実にそこにある都会の喧騒が、まるで嘘のようにしんと静まり返った境内には、自分の足音が響くだけ。
 現実から切り離されたような空間に、ただ一人。
 そんな孤独感を味わいながら、拝殿まで来た乃梨子さまは、ポケットの小銭入れから数枚の硬貨を取り出すと、賽銭箱に投げ入れた。
 そして、二礼・二拍・一礼の、一般的な神社の作法で、お祈りをする。
 首にはロザリオを下げ、腕には数珠を巻き、そして、神頼み──。
「こんなんじゃあ、神様も願いを聞き入れてなんてくれないよね?」
 自嘲の笑みを浮かべて踵を返す乃梨子さまの耳に、微かながら声が聞こえた。
 これぞ、神様の思し召しか?
 乃梨子さまは、声のする方へと歩いていった。
 そこは、本殿の横にある、小さな神楽殿だった。
 お神楽奉納、もしくは公開する時以外は閉め切られた雨戸の中から、何やら叱咤する声が微かに聞こえてきたのだ。
『バカヤロ。そこは、そうじゃねぇ。こうだろうが! こう』
『うっ、ゴメン、お兄ぃ。もう一度お願い……』
『頼むぜ、ハル。月末の大祓(おおはらえ)、お前の神楽から始まるんだからな』
『うん、頑張るよ……』
『じゃあ、もう一度だ。行くぞ』
 そして話し声は消え、微かな笙の音と舞の足音が、それに代わった。
 六月の大祓といえば、正月(大晦日)と並ぶ、神社にとっての一大神事。
「あの子、職業巫女だもんなぁ。無理言えないよなぁ……」
 高校生といえど、神楽を舞い、お祓いまで行う本職の巫女さんだから、バイトの巫女さんとは訳が違う。神社になくてはならない存在なのだ。
 そう呟いて乃梨子さまは、今度は石畳の上を外に向かって歩き出す。
 境内と外界とを隔てる鳥居の下には、白薔薇さまが立っていた。
「あ、志摩子さん……」
「どう? 乃梨子」
「ゴメン、志摩子さん。私、妹を持てないかも知れない」
 そう言って俯く乃梨子さまの背中を、白薔薇さまがポンと叩く。
「気にしないでいいわよ。姉妹を持たずに卒業する生徒は、何人もいるわ」
「だって、志摩子さん、私たちは……」
「そうね。たまたま私たちは『白薔薇』と呼ばれるだけよね? そう教えてくれたのは、乃梨子なのに」
「え?」
「ロザリオなんて、ただの飾り。そう言って、私の肩の荷を降ろしてくれたのは、誰だったかしらね?」
 クスクス笑って、白薔薇さまは石段を下りていく。
「でも、あの子は私と正反対。対極をなすから……」
 そして、ふと立ち止まる、白薔薇さま。
「私は寺の娘である事を隠し通すために、人付き合いをしなかった。でも、あの子は巫女である事に誇りを持っているのよね」
「そんな、志摩子さんだって、お寺の娘である事を恥じてないでしょ?」
「それはそうだけど、ここまでメリハリのある生活は出来なかったわ。あの子は、確固たる自分を持っている。だから信頼のおける友達もすでにいるし、それなりに充実した学園生活を送っているようにも見える。もちろんプライベートもしっかりしているから、私たちが手を出す隙がないわよね。でも……」
 言葉途中で、白薔薇さまは振り向いた。
「乃梨子は、いいの? それで」
「え?」
 先に石段を下りる白薔薇さまを、乃梨子さまは慌てて追いかけた。
「あの子の全てをひっくるめて、妹にする自信はあるんでしょう?」
「自信はない……けど、覚悟は、あるよ」
「なら、いいじゃない。断られたのは山百合会の手伝い。妹になる事じゃないわ」
「それは、そうだけどさぁ……」
 白薔薇さまと肩を並べて、乃梨子さまも石段を下りていく。
「……志摩子さんのお父さまにさぁ、お盆の読経中止しろって、言えないよね?」
「え?」
 珍しく、乃梨子さまの喩えがわからない白薔薇さま。
「そんな事したら、檀家が黙っちゃいないよね?」
「え、ええ、そうね……」
「それと同じなんだよ。あの子、本職だから……」
「暇がない──って事?」
 白薔薇さまの言葉に、乃梨子さまがコクリと頷く。
「それでも、構わないわよ。雑用させるための妹じゃないのだから。三年になるまで二年間、ほとんど薔薇の館に顔を出さなかった薔薇さまを、私は知っているわ」
「でも、それでよく薔薇さまが務まったね?」
「そうね。でも、その方は独りじゃないって事に気がついたから。見回せば仲間がいるって事に気がついたから。そして、私にも──」
 遠い目をする白薔薇さまに、乃梨子さまは何も言えなかった。
「四六時中、一緒にいる事だけが姉妹じゃないわ。本当に必要な時に一緒にいられれば、それでいいでしょう?」
「……うん」
「それに、妹のフォローは姉の役目。忙しくて仕事が出来ない妹だったら、その分姉が動いてやれば済む事よ。そして、私は貴女の姉なの。わかる?」
 フォローはするから好きに動け、と、白薔薇さまはそう言いたかったのだ。
「……ありがとう、志摩子さん」
「お礼を言うなら、貴女に妹が出来た時にして欲しいわね」
 クスクスと笑って、白薔薇さまは乃梨子さまに手を差し伸べた。
 その手を受け取り、乃梨子さまはしっかりと手を繋いだ。
 そして白薔薇姉妹は、仲睦まじくバス停へと向かったのだった。

 ふいに、笙の音が止んだ。
「な、何なの、お兄ぃ。また私、間違った?」
「……いや。お前、お姉さまと何か約束したか? 待ち合わせとか」
「お姉さまって……乃梨子さま? まだ姉妹じゃないってば」
(ロザリオをもらう暇さえ、ありゃしないってのに……)
 心の中で毒づくハルちゃん。
「で、乃梨子さまが、何?」
「外にいたぞ? 志摩ちゃんと一緒に」
「ええっ? 先に言ってよ。そういう事は」
 舞装束のまま、慌てて神楽殿を出るハルちゃん。
 参道の石畳をパタパタと、草履の音を響かせて走るけれど、お目当ての人は見当たらなくて。
 境内から外へ、バス停の見えるところまで走ると、ちょうど来ていたバスに乗り込む、リリアンの制服少女を発見。
 でも、ハルちゃんがバス停に辿り着く頃には、バスは発車してしまった。
「はぁ……」
 溜め息を吐き、ハルちゃんは肩を落として、とぼとぼと戻る。
「何の用だったんだろう? まさか、怒りに来たのかなぁ?」
 山百合会の手伝いを断ってしまったから──。
 それしか思い当たらないハルちゃんは、ドンと気分が重くなっていた。


 そして、日曜日。
 K駅北口を、一人の美少女が歩いていた。
 すらっとしたモデル並みの長身に、艶やかな腰まである長い髪。
 誰もが思わず振り向くけれど、その視線の数々も彼女を不快にさせている原因の一つなのか、ずっと渋い表情を崩さない。
「大体こういった買出しは、普段何もしない黄薔薇ファミリーがやればいいのよ」
 買い物リストを手に、ブツブツと呟く彼女。
「お姉さまもお姉さまよ。『日頃沈んでるから、いい気晴らしになるでしょう』って言われても、一人でこんなところを……あら?」
 最近、何か面白くない事があったのか、何かにつけてキレやすい彼女に対する荒療治。吉と出るか、それとも──。
「確か、ここ……よねぇ?」
 独り言に答える人もいないが、メモの通りに歩いて見ると、そこには知らない街が開けていた。
 K駅周辺は、大通りから一本中に入ると、個人経営の小さなショップがいくつもあって、通りごとにまるで違った街並みを演出している。
 もっとも、流行り廃りが大きく影響し、常に新規開店・閉店を繰り返し、恒久的に開いているショップなどは数えるほどしかないのだが。
 そんな中、比較的流行に左右されない職種の店を、彼女は発見した。
「こんなところに、喫茶店……」
 朝食を抜いてきた事を思い出し、彼女は店の扉を開けた。
 カランカランと、ドアベルの音。
 いかにもって雰囲気を醸し出している。
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
 店員に頷き、窓際のテーブル席に座る。
 メニューを広げてみるも、特に変わった物のない、平凡な喫茶店のメニュー。
「野菜サンドと、紅茶──レモンティーを」
 店員にそう伝えると、彼女は頬杖を突いて窓の外を眺めた。
 どんよりと曇った空は、月の初めに宣言された梅雨入りを、見事に表していた。


「お姉ちゃん、手伝うよ」
 奥から顔を出し、都は言った。
「宿題は済んだの?」
「うん。そんなに数ないし」
「だったら、遊びに行けばいいのに……」
 厨房の中で、振り向かずにお姉ちゃんが言った。
 どうせ、眉間にしわを寄せて、渋い顔をしているだろう事は、振り向かなくてもその背中から嫌というほど伝わってくるのだが。
「高校生にもなって、休みも出歩かずに家の中でじっとして」
「だって、外出ると、お金かかるもん」
 都のその言葉に、お姉ちゃんが振り向いた。
「お小遣い、足りないの?」
「え? ううん。充分足りてるよ?」
 外に出ないから、使う機会がない。
 いや、使わないために、外に出ないのだ。
 欲しい物、必要な物は、ちゃんと買っている。
 意味もなく街をブラつくと、何かを買った訳でもないのに結構散財している時があるから、都は極力外へ出ない。
 家の、お店の手伝いをしていれば、そんな必要もないから。
 都がお店の手伝いを買って出るのは、無論それだけが理由ではないのだが──。
「都、友達いるの?」
 心配そうに、都の顔を見るお姉ちゃん。
「う、うん。いるよ。このベストだって、友達が編んでくれたんだもん」
 お気に入りの、淡いピンクのサマーベスト。
 学校では着られないから、家で大切に着ているのだ。
「確かに、都じゃあ、ここまで上手に編めないわね」
 クスッと笑うお姉ちゃん。
 失礼にもほどがあると言いたいが、全くその通りなので、何も言えない。
「じゃあ、これ三番にお願いね。エプロンしないと汚すわよ? 大事な一張羅」
「大丈夫だよ~だっ」
 トレーにサンドイッチと紅茶を乗せ、窓際のテーブルへと運ぶ。
 日曜のお昼前。お客さんは、その人だけ──。
「お待たせ致しました」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいて頂戴……」
 長い髪の女性は、振り向きもせずに都に答えた。
 でも、喫茶店でお客さんが言う言葉じゃあ、ないよね?
 先日、薔薇の館で紅茶を出した時に、可南子さまにそう言われて──。
『……えっ?』
 紅茶をテーブルに置いた都、振り向きざまの彼女と目が合った。
「あ、貴女……」
「か、可南子……さま?」
 サイドの髪を後ろでリボンで留めるという、いつもの髪型じゃないから全然気がつかなかった。座っていたから、背が高いのもわからなかったし……。
 驚いたのはお互い様だが、その混乱から逸早く、可南子さまだけが抜け出した。
「貴女は、リリアンがアルバイト禁止だって事、知っているの?」
「は、はい……知っています……」
 可南子さまの、都を見る目が厳しい。
 でも、その目の奥には、怒りじゃなくて──。
 よくわからないけれど、だから都も、不思議と堂々としていられた。
 だって、やましい事は、何もないんだから。
 ──そう、それは不正を問いただす目だ。
「あの、お客様?」
 客席の雰囲気を察知して、お姉ちゃんが慌てて飛んできた。
「妹が、何か粗相を?」
「妹?」
 高等部在籍中は紅薔薇さまとして、またミス・リリアンにも選ばれた事のある、身内の贔屓目を取っ払ってさえ美人と形容出来る、おねえちゃんと比べられると、さすがにアレだが、どことなく都とは似ているはずだ。
「なるほど、そういう訳ね……」
 一人納得した可南子さま、おもむろに立ち上がると、お姉ちゃんにぺこりと頭を下げた。
「失礼致しました。私、リリアン女学園高等部二年、細川可南子と申します。都さんには、日頃から大変お世話になっております」
 ただ挨拶しただけなのに、ものすごくカッコいい可南子さま。
 思わず、ボーっと見惚れちゃったりして。
「都の姉、沙耶子です。こちらこそ、都がご迷惑をおかけしていませんか?」
「いえ、とんでもない。都さんは至らぬ私を、いつも支えてくれています」
「そうですか。今後とも、よろしくご指導下さいませ」
 都は唖然としていた。
 ただ挨拶を交わすだけなのに、元薔薇さまや、現役でもつぼみともなると、ここまで優雅になるものだろうか?
 とても都には真似出来ない。
 まあ、その必要もないのだが──。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
 都の持つトレーに乗せたままのサンドイッチをテーブルに置いて、お姉ちゃんは都を厨房の奥に引っ張っていった。


「ちょっと、都。お姉さまが出来たなら出来たって、ちゃんと報告しなさいよね。危うく恥かくところだったじゃないの……」
「う、いや、あの……」
「でも、素敵ねぇ、彼女。まるでモデルみたいで。私が現役だったら、きっと妹にしてるだろうなぁ」
 なるほど歴史がどう転んだとしても、可南子さまは紅薔薇のつぼみ確定な訳だ。
 しかし、うっとりしているお姉ちゃんには悪いけど、夢から覚めてもらわねば。
「私、可南子さまの妹じゃないよ。とてもじゃないけど、可南子さまの妹という大役は、私には務まらないよ……」
「……そう? でも彼女、言ったわよ?『支えている』って」

 ──包み込んで守るのが姉。妹は支え──

 それは、お姉ちゃんが口を酸っぱくして言い続けていた言葉。
 お姉ちゃんの妹の新島鮎美さんに、そしてその妹の水野蓉子さんに。
 お姉ちゃんも耳にタコが出来るほど『お姉さま』に言われ続けた言葉だとか。
 と、いう事は──?
「彼女、山百合会関連?」
 お姉ちゃんが、そう勘繰るのも無理はない。
  というか、至極順当な推理だと思う。
「……紅薔薇のつぼみ」
「なるほど……」
 ホクホク顔のお姉ちゃん。
「頑張りなさい、都。彼女、少なくとも都を嫌ってはいないわ。むしろ──」
 人生経験にプラスして『姉』経験も豊富なお姉ちゃんは、妙な含み笑いを残して都をフロアへと追いやった。


「ご馳走様でした」
 レシートを持って、可南子さまがレジへ。
「ああ、お代は結構ですから」
 お姉ちゃんの言葉に、可南子さまは苦笑した。
「そういう訳には参りません。仮にも後輩の家で、しかもお店でそのような扱いを受けてしまったら、私は二度とこちらに来られなくなってしまいます」
「なるほど、失礼致しました」
 そう言いつつ、お姉ちゃんは嬉しそう。
「都、お代を頂いて」
「え? あ、はい。六百円です」
 可南子さまはにっこりと微笑んで、お財布から取り出した千円札を都に手渡す。
 おつりを返すと、可南子さまが一言。
「ありがとう、また来るわ」
 そして、都の襟元に手を伸ばす──けれど、リリアンの制服ではないので、直すべきタイがない。
 それに気づいた可南子さま、思わず照れ笑いを浮かべた。
 それだけで天にも昇る気分の都だったが、隣でお姉ちゃんがとんでもない事を言い出した。
「あの、失礼ですけど、この後のご予定は?」
「山百合──いえ、生徒会の備品の買出しに行きますが?」
「お邪魔じゃなければ、この子を連れて行って頂けません?」
『えっ?』
 思わずハモる、都と可南子さま。
「この子ったら学校と家との往復だけで、休日にも外に出ようとしないんですよ。少しは高校生らしい遊びってものを、教えてやって頂けませんか?」
 都は、お姉ちゃんに肘撃ちをして、そして小声で言った。
「な、何考えてるのよ、お姉ちゃん。可南子さまに迷惑……」
「いいからデートしてらっしゃい。要報告。失敗したら、お小遣い抜きよ」
 そう言って、お姉ちゃんは都に一万円札を握らせた。
 こ、これで一体何をしろと?
 一瞬パニくった都だったが、カランというドアベルに助けられた。
「いらっ……お義兄さん?」
「おお、みやちゃん。遊びに行くのか?」
 固まったまま、お姉ちゃんにエプロンを外されている都を見て、お義兄さんはそう言った。
 見事な推理力としか、言いようがない。
「そうか。やっと、みやちゃんも高校生らしくなったか……」
 今まで、都を一体何だと思っていたのだろうか? この新婚夫婦は。
「日付が変わるまでには、帰ってきなよ」
 そう言って、お義兄さんも都に福沢諭吉の肖像画を握らせた。
「ちょっと、輔。何よ、それ。パチンコ? 競馬?」
 ムッとするお姉ちゃん。
 そして、そんなお姉ちゃんを、厨房の奥に引っ張り込むお義兄さん。
 う~ん、我が家の伝統か?
「バカ言え。今日は飲食店組合の会合だって言っただろうが。会議終わって親睦会だって、連中、真っ昼間から宴会開きやがって。こちとら仕事残ってるっつ~に。バカらしくて帰ってきたんだよ。だから宴会代が浮いたんだ」
「えっと……?」
「いいんですよ、放っておいて。あれが姉夫婦のスキンシップですから」
 きょとんとする可南子さまを、都は外へと連れ出したのだった。


「ごきげんよう」
「ごきげん……よ?」
 月曜朝の教室で、都に声をかけたのは、見知らぬ人だった。
「あの……どちらさま?」
「やだなぁ、みやっち。それ、ギャグ?」
 その言葉、金糸銀糸の水引で飾った熨斗(のし)袋に入れて、丁重にお返ししたいと、都は思った。
 だって──。
「は、ハルちゃん? 何が一体どうしちゃったの? その格好は……」
 都の声に、それが誰だか気づいたクラスメイトの全員が、ザワッと湧いた。
 それもそのはず。
 色素の薄い、ひよこのようなふわふわの天然パーマの髪は、ビシッと顎のラインで切り揃えられた、漆黒のストレート・ボブになっていたのだ。
 もう少し長ければ、歌乃ちゃんと間違えたかも。
「髪の毛染めて、パーマまでかけて。スカート長いし……不良さん?」
「それは、何時代の少女マンガのキャラクターだ? え?」
「ひひゃいよ、ハルひゃん……」
 人差し指で都のほっぺをグリグリと押すハルちゃん。
 まあ、スカートが長いのは、校則で決められているからだけど。
「は、ハルさん? 都さんじゃないけど、本当に何があったの?」
 さすがに食いついてきたのは、新聞部の地野京華さんと写真部の夏目史香さん。
 一年桃組報道タッグ、今日も健在なり。
「うん、家の都合で。六月末と年末は、いつもこうなのよ」
「……触ってもいい?」
「出来れば、やめて。これ、三万二千円と三時間半の結晶なのよ」
『うわぁ……』
 ストレートパーマとカラーリング。
 それなりの物を要求するなら、やっぱりお金もかかる。
「して、みやっちは、やけにご機嫌じゃん? 昨日、何かいい事あった?」
 す、鋭いなぁ、ハルちゃん。
 京華さんたちに知られると、さすがにマズイので、都はこっそりとハルちゃんに生徒手帳を差し出した。
 カバー裏のビニール部分に貼られた、一枚のシール。
「お? これプリクラじゃん。しかもツーショット。お主も中々やるのぉ」
 それこそ、何時代の人の言葉よ? ハルちゃんってば。
「して、そのお相手は──可南子さま? 詳しく話しなさいな。ん~?」
 詳しく話せといわれても、思い出すだけで顔がにやけてしまう。
 だから、かいつまんで要点だけを都は話した。
「ふ~ん、山百合会の備品買出しねぇ。しっかり手伝ってるんじゃん?」
「でも、ポールペンの替え芯とか、そんなものだけだったよ?」
「で、プリクラ撮って、他には?」
「……井の頭公園で、ボート乗った」
「完全デートコースじゃん、それって」
夕焼けがね、とても綺麗だったんだ……」
 完全トリップしてる都に、ハルちゃんはやれやれって顔をした。
「はいはい、ご馳走さま。しかしでも振らなきゃいいけどね……」
 そう言って、ハルちゃんは丸めた紙くずをゴミ箱に投げた。
 果たして、ハルちゃんの予言(?)は、見事に的中した。
 しかも、避けようもない大嵐を伴って。
 思えばクラスの中、いや、学園の中での風向きが異様だった事に、当の都だけが気づいていなかったのだ。


「だから、本当なんです。私は、この目で見たんですから」
 半泣きで訴える生徒、約一名。
 それもそのはず。
 彼女がいるのは、薔薇の館の二階サロン。
 対するのは、山百合会幹部の面々。三色の薔薇さまに、そのつぼみたち。
「だから、それが真実ではない、と、私は言っているのよ」
 バンとテーブルを叩きつけ、可南子さまが立ち上がり、その生徒を睨みつける。
 そんな可南子さまのスカートを、つんつんと引っ張る紅薔薇さま。
 暗に『座れ』と諭しているのだ。
 仕方なしに、可南子さまは席に着く。
「しかし、本人の承諾なしに顔写真の掲載は、マズイと思うよ?」
 黄薔薇さまの発言に、彼女の付添い人である新聞部の部長、山口真美さまが頭を下げた。
「確かにそれは、こちらの落ち度だわ」
「そんな問題ではありません、黄薔薇さま。記事そのものが事実無根なのです」
 敢えて役職名で呼ぶ可南子さま。怒り心頭、収まりつかず。
「黙りなさい、紅薔薇のつぼみ。今は私が話しているのよ。それとも、貴女が全てを解決するとでも言うの?」
「ええ、お望みとあらば、私が……」
「可南子っ!」
 紅薔薇さまの叫び声に、この場の全員がビクッとなった。
 親友であるはずの真美さまも、紅薔薇さまが叫ぶとは信じられない様子で、しばらく口をポカンと開けたままだった。
 そして可南子さまは、ギュッと口を閉じた。
 奥歯を噛み締める音が、聞こえてきそうな勢いで。
「さて……」
 紅薔薇さまが、初めて話題に口を出した。
「新聞部としては『この記事が真実である』という事を譲らない訳ね?」
 話が部単位となったことから、記事を書いたであろう彼女は、首を縦に振る事が出来なくなった。
 紅薔薇さまが指差したのは、テーブルの上の紙片。
 リリアンかわら版、号外。
 その見出しは『紅薔薇のつぼみの妹候補、校則違反のアルバイトを!』だった。
 さらには『紅薔薇のつぼみも容認か?』と、こちらは疑問形になっていたが。
「状況証拠から、そう判断せざるを得ないわ。私は、私の部員を信じます」
 自分が一切関与していないとはいえ、新聞部の名前で発行された書面に全責任を負うのは部長の義務。
 真美さまは、この場でそう言うしかなかった。
「ふむ。じゃあ、記事が事実無根だった場合、その時点で向こう半年間、新聞部の一切の活動を禁じます」
『え?』
 紅薔薇さまの発言に、可南子さま以外の全員が声を上げた。
 溜飲が下がった可南子さまだけは、うんうんと頷いていたが。
「だって、そうでしょ? 記事が真実だった場合は、校則違反として、この生徒は退学処分間違いないけれど、もし事実無根だったとしても、この話が先生方の耳に入ったら、この生徒はよくて謹慎、下手すりゃ退学よ? 人一人そこまで追い込んでおいて『間違いでした、ごめんなさい』では、済まされないわ」
 その昔、デートクラブでバイトをしているらしいと、事実めかした小説の主人公にされ、その家族から果ては他校の教員までをも巻き込んだ新聞部発祥の事件は、まだ薔薇さま方や真美さまの記憶にも新しかった。
「祐巳さんは……何か知っているの?」
 真美さまの問いかけに、紅薔薇さまは首を横に振る。
「私は何も。でも、この様子だと、可南子は知っているわ。多分、全てを。だから私は、世界中の何を敵に回しても、可南子を信じる。ただそれだけよ」
「紅薔薇さんちの麗しき姉妹愛はわかったからさ、さっさとタネ明かししてよ」
 身も蓋もない黄薔薇さまの言葉に可南子さまはムッとし、紅薔薇さまは苦笑い。
「もう、由乃さんったら……。さあ可南子、説明なさい」
「……」
 ムッとしたままそっぽを向き、可南子さまは口を開こうとはしなかった。
「可南子?」
「……もう結構です。その記事が『真実』なのでしょう? だったら、それでいいじゃありませんか」
 可南子さまは立ち上がり、そしてビスケット扉へと向かう。
「可南子、何処へ行くの?」
「さあ。でも、その記事によれば、私も一枚噛んでいる事になっています。でしたら、何らかの処分が下る私と席を同じくしていれば、みなさま方にもご迷惑がかかるでしょうから。ごきげんよう……」
 扉を開けようとする可南子さまを止めたのは、紅薔薇さまでも、もちろん黄薔薇さまでもなく、全校に一斉に流れた、しかも呼び捨ての校内放送だった。

『一年桃組、天野都。至急、生活指導室まで来なさい』


à suivre...