Heaven's Gate #6

 


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
「ごきげん……にゃあっ!」
 そして、乙女の中途半端な悲鳴も、澄みきった青空にこだました。
「ごきげんよう、みゃあちゃん。朝からいい声だね~」
 語尾にハートマークを三つほど付けて、後ろから都に抱きつく紅薔薇さま。
「な、な、な……」
「納豆売り?」
 それは確かに、MKサンバをも凌駕する破壊力を持つのだが。
 うちのお店の有線放送で聴いた時、ホントにブッ飛んだし──じゃなくて。
「う~ん、確かにこれは……聖さまの気持ち、わかるなぁ」
「……せいさま?」
「ん? ああ、こっちの話。それより、冷静だね、みゃあちゃん」
 言われてみれば、確かにその通り。
 紅薔薇さまに抱きつかれているのに、都が思った事はといえば「またクラス内でギャアギャア言われるな……」だし。
 それと、紅薔薇さまから香る、花のような──香水?
 やっぱり大人なんだなぁ、と、そう思うくらいだった。
 本来なら、お声がけするのも恐れ多い天上人なんだけど、マリア祭で密着(?)して以来、都の顔を見かけると挨拶代わりに抱きついてくる紅薔薇さまには、ある意味慣れた感があった。
「そ、そうですか?」
「そうよ。もう一つ、何か面白みに欠けるわね」
 それは、単に都が平凡な一生徒だから──ですよ。紅薔薇さま。
「そろそろ、離して下さいませんか? 紅薔薇さま。マリア様が見てますし」
「そうね、可南子も見てるしね」
「えっ?!」
 その一言に、都の心臓が急に早鐘を打つ。
 全身の体液が一瞬で沸騰し、身体中が熱くなるのが自分でもわかる。
 顔なんて、これ以上ないってほど真っ赤だし……。
「ごきげんよう、お姉さま。朝っぱらから、随分とお楽しみで……」
 可南子さま、明らかに機嫌が悪そうなお声。
「ふふふ、ごきげんよう。そういう可南子は、機嫌悪そうね。低血圧?」
 わ、わかってて言ってるよ、紅薔薇さま。
 紅薔薇家の姉妹ゲンカなんて恐ろしいものを間近で見たくない都は、何とかして紅薔薇さまの腕から逃れようと、必死になってもがいていた。
「ほら、嫌がっているではありませんか。放してやりませんか?」
「イヤよ。せっかく捕まえた仔猫ちゃん、誰が手放しますか」
「あの……可南子さま、ごきげんよう……」
 ジタバタしながらも、取り敢えず挨拶だけはする都。
「嫌がる生徒を力で押さえつけるなんて、生徒を束ねていくはずの山百合会の会長たる『紅薔薇さま』のなさる行為とは、とても思えませんが?」
 都の挨拶を全く無視して、可南子さまは紅薔薇さまに強烈な嫌味を言い放った。
「じゃあ、可南子が捕まえててくれる?」
「な、何故、私が……」
 顔を真っ赤にして怒る可南子さま。
 終始笑顔の紅薔薇さまは、やれやれと言いながらも、都から腕を離した。
「ぷにぷにでぷくぷくで、抱き心地よくて気持ちいいのに……」
 クスクス笑いながら、紅薔薇さまが一歩退く。
 すると、まるで順番が決まっていたかのように、可南子さまが都の前へ。
 そして、紅薔薇さまに抱きつかれて乱れまくった都のタイを、可南子さまは無言で直していく。
「貴女ねぇ、そんなみっともない暴れ方しないの。かえってお姉さまを喜ばせるだけでしょうが」
「は、はぁ、すみませんでした……」
 都に何ら落ち度はないはずだが、この場は素直に謝るしかない。
 でも、可南子さまに叱られるのはツライし、理不尽だし。
 だから、都はどんどん落ち込んでいった。
 抱きしめるように頭のリボンを整えてくれているのに、不用意に触れないように間隔を空けた可南子さまの腕が、余計に都を悲しくさせた。
 紅薔薇さまほどじゃなくていいから、ほんの少しでいいから、触れて欲しくて。
 可南子さまに触れてもらえる、タイやリボンが、逆に恨めしくて。
 どんどん気分が沈んでいく。
 だから視線もどんどん下がって、もう足元の地面しか見えなくて。
 そしてリボンの修正も終わり、可南子さまの手が都から離れていく。
 囲われていた腕がなくなって、顔に光が差すけれど、全然明るくなくて──。
「あ、ありがとうございました……」
 改めて頭を下げる必要がないほど、都はうなだれていた。
 そんな都の両肩を、可南子さまがガシッと掴んだ。
「え?」
 思わず可南子さまを見上げる都。
「やっと、こっちを向いてくれたわね。まあ、私が怖いのも、仕方ないけれど」
 怖い? 私が? 可南子さまを? そんな事、あるわけがない。
 でも、どこか淋しそうな可南子さまの瞳に魅入られて、都はそれを否定するために首を振る事さえ出来なくて。
「別に、取って食おうって訳でもないのだから、そう怯えてもらっても困るわね」
 怯えている訳じゃない。
 ただ魅了されて、動けないだけで。声が出せないだけで。
 だから、自分の意思ではなく流れる涙を、都は止められなくて。
「そんなに泣くほど、怖いのよね。それが、普通よね……」
 ──違う。そうじゃない。ただ憧れが強過ぎるだけ──。
 でも、そう叫びたいけれど、声が出ない。
 何かきっかけでもなければ、このまま一生声が出せないんじゃないか?
 そんな錯覚に、都は陥っていた。
「貴女にはもう近づかないから、怖がらせないから、泣かないで頂戴……」
 ポケットからハンカチを取り出して、可南子さまは都の顔を拭いてくれたけど、都の涙はとどまるところを知らない。
 もう近づかないなんて、そんなの嫌だ。
 やっとお近づきになれたというのに、もうお傍に寄れないなんて。
「貴女が悪い訳じゃないから。貴女には何の落ち度もないから。だから……え?」
「にゃぁ!」
 ドンと背中を突き飛ばされて、都は思わず可南子さまの胸に飛び込んでしまう格好となった。
 そして、そんな都を、しっかりと受け止めてくれた可南子さまは、ぎゅっと都を抱きしめる格好になってしまった。
「お、お姉さま、なんて事をなさるんです! 危ないじゃないですか」
 ……という事は、紅薔薇さまが都を、突き飛ばした?
「ふふふ。本当に『危ない』のは、何だったのかしらね~?」
 鳴らない口笛を吹きながら、しれっとした顔でそっぽを向く紅薔薇さま。
「あ~あ、私も、甘えたくなっちゃったなぁ~♪」
 聞こえよがしにそう言って、紅薔薇さまは何故か大学校舎の方へと足を向けた。
「あの、紅薔薇さま? そちらは……」
「いいから、放っておきなさい」
「は、はい……」
 頭の上でそう言われて、都は黙るしかなかった。
 でも、これって、この体勢って、都が可南子さまに抱きしめられてる?
 偶然そうなったにしても、これは紛れもない事実な訳で──。
 また、都は涙が止まらなくなった。
 さっきの悲しい涙とは違って、今度は完全に嬉し泣き。
「あ、ああ、ごめんなさい。また怖がらせてしまったわね……」
「嫌です!」
 手を放そうとする可南子さまに、やっと都は言葉が出せた。
「嫌です。手を放さないで……。お願いですから、もう少しこのままで……」
 都の言葉に、可南子さまは無言で答えてくれた。
 その腕に、都を抱きしめるその腕に、ぎゅっと力を込める事で──。


 教室に入ると、微妙な空気が流れていた。
「ああ、みや。ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう、歌乃ちゃん。どうしちゃったの?」
 クラスの、約半分が、何故か黙々と編み物をしている。
 歌乃ちゃんも、その一人なのだ──というか、一人、また一人と、歌乃ちゃんにわからないところを訊きに来ては、また席に戻って編み始める。
 まるで、編み物教室の先生だ。
 確かに、初等部の時から歌乃ちゃんは編み物が上手だった。
 というより、歌乃ちゃんは『動かなくて済む事』に関して、非常に長けていた。
 多分、身体が悪くて運動出来なかった幼馴染みと一緒に、こうやって遊んでいたのだろう。長い長い時間を、じっとその場で費やせる遊びで。
 だから、季節を問わず、歌乃ちゃんは編み物をしている事がある。
「サマーセーター? にしては、糸が太いね……」
 どう見ても、温かそうとしか形容出来ない。
 これから、梅雨を経て夏に向かう──つまり、暑くなるのに、温かいニット。
 しかも、長さといい幅といい、どう見てもマフラーにしか見えない。
「まさか、マフラーじゃあ、ないよね?」
 どんなに凝った編み方でも、マフラーくらいなら三日もあれば一本編めてしまう歌乃ちゃんが、夏前のこんな時期からマフラーを編み始めるなんて、とても都には信じられなかった。
「マフラーよ? 見ればわかるでしょ?」
「いや、わかるけどさぁ……」
「みやも、今から始めたら? クリスマスにプレゼントあげたい人の一人や二人、いるでしょう?」
 歌乃ちゃんにそう言われて、都はドキッとした。
 クリスマスプレゼントをあげたい人、まず一人目は──。
 想像しただけで、顔が真っ赤になった。
「じゃあ、歌乃ちゃんも、その口?」
「私は、単なる指の運動。高等部に上がってから、全然編んでないしね」
「『私は』って事は、みんなは?」
「今から頑張れば、クリスマスには少しはマシなものが出来るからって」
「なるほど……」
 確かに、必ず最初の一本をあげなきゃならないって訳じゃない。
 どうせなら、一番出来のいいものをプレゼントしたい。
 半年もあれば、それなりの練習も出来るって訳か。
「じゃあ、私も何かするかな?」
「その前に、みやにはする事があるわね?」
「え? 何?」
 きょとんとする都に、歌乃ちゃんはにっこり微笑んだ。
「リサーチよ。その人の好きな色は? 好みの味は? 編み物でいいの? 他に何か好きなものはないの? みや、何も知らないでしょう?」
「うっ……」
 言葉に詰まる都。
 都だったら、可南子さまから頂けるものなら、たとえメモの切れ端だって嬉しいし、大切な宝物になる。
 でも、可南子さまは、そもそも都から何かもらって、嬉しいのだろうか?
 そういえば、都は可南子さまの事を何も知らない事に気がついた。
「……リサーチかぁ」
 お近づきになるだけで、紆余曲折、波乱万丈。
 この先、そんな話が出来るのだろうか?
 いや、そもそも、クリスマスまで今のように仲良くして頂けるのだろうか?
 考えれば考えるほど、不安になっていく都だった。


 昼休み、教室の隅にシートを敷いて、屋内のプチ・ピクニック。
 もうほとんど日課となっているので、クラスメイトも以前のように訝しがらないし、参加する時も自分の椅子を持ってきて、シートの外側で座っていたりする。
 さすがに食事中、ずっと正座じゃツライらしい。
 狭いアパート暮らしだった都には、一時間くらいの正座は苦でも何でもないが。
 ハルちゃんが用事で席を外しているため、歌乃ちゃんと都の二人でスタート。
 ハルちゃん特製のお味噌汁は置いていってくれたため、先に始めているのだが。
「歌乃ちゃん、何か、私たちに隠してる事、ない?」
 都は、単刀直入に訊いた。
「隠してるつもりはないけれど、まだ言えない事は、あるわ」
 だから、歌乃ちゃんもストレートに答えてくれた。
「まだ言えないって事は、いつか話してくれる……で、いいんだよね?」
「私一人だけの事じゃないから。時期が来たら、真っ先に話すわ」
「是非とも、そうしてやって欲しいものだね」
 何処から聞いていたのか、ハルちゃんが参加した。
「ハル、どういう意味?」
「ん? 言葉通りよ」
 上履きを脱ぎ、シートに腰を下ろすハルちゃん。
「何隠してるか知らないけど、みやっちには真っ先に話して欲しいってだけよ。他の、誰よりも先に、ね」
 落ち着いた感じで、そう話すハルちゃん。
「貴女は、いいの? ハル」
「ん。みやっちと歌乃っちは、幼稚舎から築いてきた絆があるじゃない? 私は、それを大事にして欲しいワケよ」
 ズズッと音を立てて、ハルちゃんはお味噌汁をすすった。
「……自分は、一歩退くって、そう言いたい訳?」
 歌乃ちゃんが睨むも、ハルちゃんは平気な顔で、都のお弁当箱のミートボールに手を伸ばしている。
「いや、それがあって、みやっちであり、歌乃っちであるワケじゃん? 私は、そんな二人だから、こうして一緒にいるのよ。それを壊して新たなみやっちや歌乃っちってのもアリだとは思うけど、私は嫌だから。ただそれだけよ」
 何だかよくわからないけれど、つまり都は都のままでいい──って事かな?
「……よくわからないわね。もっと具体的に言ってよ」
 歌乃ちゃんにも理解不能だったらしい。
 ふっと溜め息一つ吐いて、ハルちゃんが続けた。
「普段、何もない時に悩んでいるような二人の顔は見たくない。そりゃ人間だから悩み事の一つや二つはあるだろうけど、貴女たち二人の間にわだかまりがあるような、そんな顔は見たくない。初めて逢った時のような、あんな笑顔でいて欲しいのは、私の我が儘だって、わかってはいるんだけど……」
 逆に、ハルちゃんが悩んでしまった。
 歌乃ちゃんと都は、思わず顔を見合わせた。
 そして、まず歌乃ちゃんが動いた。
「その言葉、そっくりそのまま返すわよ」
 ハルちゃんのほっぺを、キュッとつねって。
「うん。ハルちゃんの笑顔が、いつも私に元気をくれるよ?」
 都も、ハルちゃんのほっぺをつまむ。
 ふにふにで柔らかくてスベスベで、気持ちいい。
「……ひひゃいよ。ふはひひょも」
 両のほっぺをつままれたハルちゃん、お返しとばかりに両手を伸ばし、都と歌乃ちゃんのほっぺをつまむ。
 じゃあ、とばかりに、都は歌乃ちゃんの、歌乃ちゃんは都の、空いてるほっぺをそれぞれつまむ。
 三人が三人とも、お互いのほっぺをつまみ合う姿は、傍で見ていると相当滑稽に違いないだろう。
「アンタたち、本当に飽きさせないよね」
「ホント、このクラスでよかったわ。ああ、マリア様、ありがとう……と」
 気がつけば、史香さんが写真を撮りまくり、京華さんが記事をメモっている。
 他のみんなもこっちを向いて、クスクスと笑っているし。
 でも、まあいいか。みんなが元気で笑っていられるなら。
 ちょっぴり恥ずかしかったけれど、都はそう思う事にした。


 その頃、薔薇の館では、紅薔薇さまと黄薔薇さま、それに可南子さまが、一緒に昼食を取っていた。
「可南子、どうしたの? 箸が進んでないようだけど?」
 確かに、可南子さまは浮かない顔をしていた。
 紅薔薇さまにチェックを入れられた可南子さま、食事の途中で席を立った。
「お姉さま、お茶、いかがですか? 黄薔薇さまも」
「そうね、緑茶もらえる? うんと渋くして。祐巳さんは?」
「私は、そんなに渋くないのがいいな」
「……我が侭なんだから、祐巳さんってば」
 どっちが? と、内心ツッコミを入れる可南子さまだったが──。
「ごきげんよう、お姉さま、祐巳さま」
 そこへ、瞳子さまが登場したため、状況は一変。
 可南子さま、今しがた入って来た瞳子さまを、じっと見つめている。
 そして、つかつかと歩み寄り、瞳子さまの目の前に立った。
「な、何か? 可南子さん」
「ああ、いいところに来てくれたわ。ちょっと失礼……」
 そして、可南子さまは、何を思ったのか、瞳子さまをぎゅっと抱きしめた。
 これには、当の瞳子さまのみならず、黄薔薇さまや紅薔薇さまも、声を失った。
「……違うわね」
『何が?』
 この場の全員が、そう言いたかったに違いない。
 相変わらず浮かない顔で、可南子さまは瞳子さまを放し、また流しに向かった。
「な、な、な……」
 怒りとも何とも取れない、真っ赤な顔をした瞳子さまに、紅薔薇さまがボケた。
「納豆売り?」
「……祐巳さん、それ、何?」
 さすがは薔薇さま方、速攻で違う話に逃げていた。
「な、な、何ですのーっ! 一体これはっ!」
 知る訳ないじゃんって顔をする薔薇さま方。
「ごきげんよう。あら? 瞳子ちゃん、どうかして?」
 微笑む白薔薇さまと、その後ろで『つぼみ同士、何かあったに違いない』と見当をつけた乃梨子さまが、入室してきた。
「ああ、乃梨子さん。ちょっといいかしら?」
 返事をする間も与えずに、可南子さまは乃梨子さまに抱きついた。
『え?』
 目が点になる白薔薇姉妹をよそに、可南子さまはポツリと呟く。
「……やっぱり、違うわね」
「だから、これは一体なんですの? 可南子さん。こんな辱めを……ちゃんとした返事は頂けるのでしょうね?」
 瞳子さまが吠えるが、残念ながら可南子さまの眼中にはなかった。
 乃梨子さまを手放すと、今度は白薔薇さまをじっと見て──。
 さすがに上級生には失礼に当たると思い至った可南子さま、名残惜しそうに席へと向かうのだった。
「可南子ちゃん? 志摩子さんは、どうなの?」
『え?』
 黄薔薇さまの言葉に、白薔薇さまと可南子さまがハモった。
「そら行け、やっちゃえ!」
 発言が思いっきり不穏だが、可南子さまには渡りに船。
 一応「失礼致します」と断って、可南子さまは白薔薇さまにも抱きついた。
 そして一言。
「……違う」
「じゃあ、祐巳さんは?」
「へ? 私?」
 面白ければ何でもアリな黄薔薇さま、どんどん可南子さまを焚きつけていく。
「お姉さま、失礼致します」
 ぎゅっと抱きしめた……のは、どちらだったか?
 紅薔薇さまは、これ幸いにと可南子さまに抱きついていた。
「う~ん、やっぱりいいわぁ~♪」
 ご満悦な紅薔薇さまだけど、可南子さまはというと、若干照れたような、でも、全体的には浮かない顔のままだった。
「さて、じゃあ、最後は由乃さんになるのかしらね?」
 にやりと笑う白薔薇さま。その笑顔、ちょっぴり背筋に冷たいものが……。
「え? 私も……なの? 嘘でしょ?」
 紅白の薔薇さまが両脇を固め、黄薔薇さまは逃げ道を失った。
「え、嘘、冗談……うひゃっ」
 面白い声を上げ、黄薔薇さまは可南子さまの手に落ちた。
 そして、何事もなかったかのように席に着いた可南子さま、お弁当の残りに手をつけるのだった。
『一体、何だったんだろう?』
 この奇行の意味は、放課後に紅薔薇さまにもたらされた一枚の写真で判明するのだが、それはまた別の話。


『お茶会?』
 都たちのハモリに、歌乃ちゃんはコクリと頷いた。
「『茶話会』とも言うわね。お茶を飲んで、雑談するの。どう?」
「どう……って言われても……」
 昼食後、いきなり歌乃ちゃんが提案したのだ。
 ──今日の放課後、お茶会しませんか?──って。
「さっきの話、するんでしょ? だったら、みやっちと二人でやりなよ。私はパスさせてもらうから」
「遠慮しているの? だったら、そんな心配はいらないわよ?」
 歌乃ちゃんも、引き下がらない。
「いや、悪いけど、マジで今日は用があるんだ。速攻で家に帰らなきゃ」
「へ?」
 思わず間の抜けた声を出した都。
 そして、ハルちゃんの一瞬の変化を見逃さなかった、歌乃ちゃん。
「……白薔薇のつぼみ、関連?」
「ん、白薔薇さまと、一緒に来るって」
 顔を真っ赤にして、ハルちゃんが俯いた。
 これは、すごく可愛いぞ?
「じゃあ、仕方ない。頑張って、ハル」
「あはははは、ありがと」
「ハルちゃん、頑張れ」
 言葉で応援する事しか出来ない都だが、その思いは真剣。
 ハルちゃんも満更悪い気はしないって感じだし、だったらこのままハルちゃんには『白薔薇のつぼみの妹』になってもらいたい。
 ──今、一瞬、ビミョーな違和感を感じたが、まあいいだろう。
「じゃあ、みやはOKって事で、よろしくね」
 有無を言わさず参加する事になってしまった。
「あ、あんまり遅くなるのは、ちょっと……。家に何も言って来てないから……」
「お茶飲むだけよ。それで、いいでしょ?」
 真剣な歌乃ちゃんの顔に、首を縦に振るしかない都だった。


 放課後、中庭の外れまで連れてこられた都。
「っと、歌乃ちゃん? 何処へ行くのかな?」
「そこよ。見えるでしょ?」
 中庭に、ポツンと一つある建物。
「ここ……は?」
 都の記憶に間違いがなければ、ここはリリアン高等部生徒会本部。
 いわゆる『薔薇の館』ではないか。
 そんな、一般生徒には近寄る事さえおこがましい、言うなれば『聖域』に、歌乃ちゃんは物怖じもせずに入っていく。
 当然都は、その入口の前で、完全に躊躇しているのだが。
「みや? 何しているの? 早く来なさい」
 中から、歌乃ちゃんの声がする。まあ、当然なのだが……。
 あと一歩で、建物の中。でも、その一歩が踏み出せない。
「何やってるの? 早く来なさい」
 つかつかと歩み寄り、歌乃ちゃんは都の腕を引っ張った。
「わ、わ、わ」
 つんのめるように、建物の中へ──。
「は、入っちゃった……」
 吹き抜けの玄関横、二階へと続く階段を上る。
「い、いいのかなぁ? 私なんかが入って……怒られない?」
「どうして?」
「だって、部外者だよ? 山百合会に全然関係ないし……」
「あのね、山百合会っていうのは、リリアンの生徒会の事。みやはリリアンの生徒なんだから、山百合会の会員。それが本部を訪ねたからって、怒られる理由にはならないわ」
 そりゃあ、そう言われればその通りなんだけど。
 釈然としないまま、二階の部屋へと通された。
 ビスケットみたいな木の扉を開けると、そこは教室の半分くらいのスペース。
 中央に大きなテーブルがあって、椅子が数脚置いてある。
 ここで、薔薇さま方が、優雅に仕事をなさっているのか……と、想像するだけで身震いしてしまう。
 でも歌乃ちゃんは、そんな都の考えも一切気にせずに、そのまま部屋の中にまで入ってしまったのだ。都の腕を引っ張ったままで。
「みや、何飲む?紅茶でいい?」
「えっと、お構いなく……」
 自分でも、何言ってるか、わからなくなってきた。
 ここは、薔薇の館で、薔薇さま方は不在で、都がいて、歌乃ちゃんが壁際の流しでお茶を準備していて……あれ? 何かが変だ。でも、何がおかしい?
 一番変なのは、今ここに、都がいる事。
 だから都は、それ以上の事は、何も考えられなくなっていたのだ。
「何、パニクってるかな? その辺、適当に座っててよ。まだお湯沸かないから」
 そんな事を言われても、不安になるだけ。
 だから都は、歌乃ちゃんの傍にピッタリと身を寄せた。
「どうしたの、みや」
「か、歌乃ちゃんは、よく平気だね? 怖くないの?」
「怖い? 何が?」
「だって、誰かが来たら……ひぃっ!」
 そう、今にも、そのビスケットのような扉を開けて──。
 と思ったら、本当に扉が開いたので、都は思わず悲鳴を上げてしまった。
 そして、可南子さまが入って来た。
「ごきげんよう、可南子さま」
「ああ、ごきげんよう」
 可南子さまは、さしたる興味もなさそうに歌乃ちゃんを一瞥、そして、その横に都がいるのに気がついた。
「あら、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう……か、可南子さま……」
 怒られる──と思ったけれど、可南子さまは朝と同じく、都のタイを直し、髪のリボンを整える。
 ただ、朝と違ったのは、その腕の位置。
 壊れ物を触るような、出来るだけ触れないようにって感じではなく、最短距離で余裕を持った感じで。
 だから、可南子さまの制服の袖が、都の肩に、頬に触れていた。
 たったそれだけの接触が、都には嬉しくて。
 ふと視線を落とした可南子さまと目が合い、思わず顔が真っ赤になった。
「可南子さま? みやの制服、そんなに乱れてました~?」
 ニヤニヤしながら、歌乃ちゃんが……冷やかし?
「そうね、乱れていないわね。ちゃんと整っていたわね。何故かしら?」
 一瞬、自分の行動に疑問を感じた可南子さまだったが、すぐに思い出したように大きなテーブルにカバンを置くと、席に着いて何やら書類のチェックを始めてしまわれた。
 可南子さまは、紅薔薇のつぼみ。
 山百合会の幹部なのだから、薔薇の館で仕事をするのは当たり前。
 そして──あれ?
「可南子さま、何飲まれます?」
 仕事中の可南子さまに、歌乃ちゃんが平気で声をかける。
「ああ、構わないで頂戴。自分でやるか……ら?」
 可南子さま、流しの方を振り向いて──微笑んだ?
「そうね、紅茶をもらおうかしら?」
「了解しました。はい、みや」
「えっ?」
 返事をした歌乃ちゃん、流しの上の棚から紅茶と思しき缶を取り出し、都に手渡した。ついでにポットと茶漉しも一緒に。
「わ、私に、淹れろと?」
 ヒソヒソ声になってしまったが、仕方がない。
 可南子さまに聞かれる訳にはいかないのだ。
「チャンスよ、みや。もっとお近づきになるチャンスよ」
 言われてみれば、その通り。
 都は家で淹れるように、お店でお客さまに出すように、丁寧に紅茶を入れた。
 家の手伝いで、最初にお店に立った時と同じくらい、都は緊張していた。
「頑張れ、みや。てか、慣れてるでしょ?」
「ま、まあね……」
 ここはお店。ここはお店。
 自分にそう言い聞かせて、都は可南子さまに紅茶を出した。
「お待たせしました」
「ああ、ありがとう……」
 カップを手に取る可南子さま、そのまま口元へ……持ってきた手が止まった。
『え?』
 何故かハモる、都と可南子さま。
 しばらくすると手が動き、紅茶を一口。
 可南子さま、カップをさらに置くと、いきなり立ち上がって都に詰め寄った。
「あ、貴女ね」
「は、はい……」
 肩を掴まれて、恐縮する都。
「貴女、何を淹れたの? こんな香り立つ高級なお茶、ここにはないはずよ?」
「ふぇ?」
 都の肩越しに流しを見るが、そこには見慣れた道具しかない。
 お茶缶だって、それこそ普段から使っているものだ。
「あの缶のお茶を、使ったの?」
 カクカクと人形のように頷く都に、可南子さまも思わず吹き出した。
 そして、テーブルのお茶を飲み干して、カップを都に差し出した。
「もう一杯、入れて頂戴。今度は私の目の前で」
 そう、可南子さまが微笑んでくれた。
 こんな幸せな事が、あっていいんだろうか?
 都は幸福感で心が満ち溢れていた。
「は、はいっ」
 泣き出しそうになるのを必死で堪えて、都はもう一度流しの前に立った。


 帰り道、まるで夏のように夕立が降った。
 両親の事故を思い出すから、都は雨が好きではない。
 でも、この日の雨は、都には温かく感じられた。
「天国から、お母さんたちが応援してくれているのかな?」
 そんな気がする、優しい雨だった。
 でも、十人十色。人それぞれに感じ方は違うもので──。

「そうか、歌乃っち風邪ひいたのか……」
 昨日の夕立に降られて、徒歩通学の歌乃ちゃんは、ずぶ濡れになったらしい。
 今朝、電話口の歌乃ちゃんは、とても辛そうだった。
「うん。だから、お見舞いに行こうと思って……」
 昨日、歌乃ちゃんが、かなり都の背中を押してくれた。
 だから都も、何か歌乃ちゃんの力になりたかった。
 風邪をひいた時は、何故か心細いから。
 それに、歌乃ちゃんの家は、両親ともに働いているので、どちらかの仕事が終わるまでは一人っきりなのだ。
「じゃあ、私も行こう。賑やかしに」
「だね。途中のコンビニで、プリンか何か買って」
「アイスもいいらしいよ? 風邪の時は」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、アイスも買おう」
 そんな相談は、即決。持つべきものは、頼もしい友。
 歌乃ちゃんも、都たちをそう思ってくれると、嬉しいな。


 コンビニ袋を携えて、歌乃ちゃんの家へ。
 玄関脇のインターホンのボタンを押す。
『はい、前橋ですが?』
 電話じゃないのに名乗ってる……っていうか、歌乃ちゃんじゃない、女性の声。
 思わず都は、ハルちゃんと顔を見合わせた。
「歌乃っち、一人じゃなかった? お母さん、いるじゃん?」
「ううん、小母さまの声じゃないよ?」
 頻繁にというほどでもないが、幼稚舎からの友達だから、歌乃ちゃんの家に遊びに来た事は何度もある。
 家族にだって、都の顔は覚えてもらっている。
 逆に、歌乃ちゃんの家族の事も、都はよく覚えている。
 だから、断言出来た。この声は、違う。
『もしもし? どちらさま~?』
「あ、あの、私、リリアンで歌乃ちゃんのクラスメイトの……」
『ああ、ちょっと待って。今開けるから』
 都が名乗る前に、ぷつんと切れたインターホン。
 数秒して、玄関の鍵がガチャンと音を立てて、そしてドアが開いた。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
 まるで、自宅のように馴染んでいるその人に、都たちは見覚えがあった。
『ロ、ロ、……』
 言葉を失っている都たちを出迎えてくれたのは、黄薔薇さまだった──。


à suivre...