Heaven's Gate #5

 


 その日から、都は可南子さまと逢う事がなくなった。
 もっとも、今まで朝しかお逢い出来なかったから、多分可南子さまが登校時間を変えられたのだろう。
 いつも通りに都は登校し、マリア様にお祈りをしているところに、ハルちゃんが登校。そのままマリア様のお庭の片隅で、予鈴寸前まで話し込むのが日課となっていた。付き合わされるハルちゃんは迷惑だろうが、それでも嫌な顔一つせずに都に付き合ってくれていた。
 ハルちゃんは話題が豊富で、ほとんど都が聞く側に回っていた。
 平静を装っていながら、どこか不安げな都を気遣っての事だろう。
 ハルちゃんといると、毎日あっという間に時間が過ぎていく。
 だから──都はハルちゃんに依存しているのかも知れない。
 歌乃ちゃんは、相変わらず付かず離れずの距離をキープして、都とベタついたりはしない。それでも都が困った時、振り向けば傍にいてくれる。
 今、ここに歌乃ちゃんがいないのは、都にとって本当のピンチではないから?
 そう思って、いいのかな?
「……っと、予鈴五分前だ。そろそろ行こうか」
「うん……」
 名残惜しいが、登校しているのに遅刻となるのは嫌だ。
 とっくに人影のなくなった校庭を、二人は歩き始めた。
 ──今日も、お逢い出来なかったな。


 薔薇の館。
 剣道部の副部長となり、放課後に顔を出す事が困難となった黄薔薇さまを重んじて、重要な会議は早朝に行われる事になった山百合会。
 だから、可南子さまはもとより山百合会幹部は、登校時間を早める事となった。
 なぜなら、ここ連日、重要な会議があるから。
 そう、もう間もなくマリア祭があるのだ。
「っと、新入生に贈呈するおメダイは、当日神父様がお持ちになるので、受け取りを……可南子? 聞いてるの?」
 頬杖をついて、視線はどこか遠くを見つめ、気分は完全に上の空。
 それでは、いくら温厚な紅薔薇さまでも、ご立腹というものだ。
「え? ああ、はい……」
 生返事にムッとするものの、始業前の会議では時間が惜しいらしく、紅薔薇さまはさらっと流さざるを得なかった。
「おメダイの受け取りは私たちが行くわ。だから『天使たち』のお出迎えは……」
 白薔薇さまの提案に、黄薔薇さまが頷いた。
「そうね──幼稚舎に馴染みのある顔がいた方が、保育士の先生方も安心なさるでしょうしね。黄薔薇家はみんな幼稚舎からだから、それは任せて」
「あ、でも由乃さん。高等部のマリア様は、お庭とお聖堂のお二人よ?」
 マリア祭当日の早朝、幼稚舎の園児たちが天使の仮装をして学園内を練り歩き、学園の全てのマリア像をお花で飾るのが慣わしとなっていた。
 学園の敷地が広大なのと、マリア像の数が多いので、数組に分けて回るのだが。
 さすがに保母の先生方も帯同されるが、それでも行く先々でのお姉さま方のお出迎えも、園児たちの楽しみだったりする。
「じゃあ、校庭のマリア像は私たちが。由乃さんたちは、お聖堂をお願い」
「いいけど、雨降ったら?」
「雨天時は、園児の移動はなしよ? 忘れた?」
 この十数年、マリア祭の日に雨が降った事はない。あってもパラパラ程度。
「ん、了解。祐巳さんに任せるわ」
 黄薔薇さまの言葉に、白薔薇さまも頷く。
「お土産は、園児の数プラスアルファで──」
 今年は、山百合会主催の余興に、それほど力を入れなくてもいい(?)薔薇さま方だから、議事がスムーズに流れていく。
「──これを、二つに分けて、園児および先生に手渡す……と。ゴメンね、志摩子さん。なんだか美味しいところをもらってしまって」
「ううん。去年の幼稚舎慰問もそうだったけれど、祐巳さんは園児たちに人気があるから。私は横にいて、園児たちが喜ぶのを見ていたいわ」
 白薔薇さまが、クスクスと優雅に微笑む。
「それって、何だか私が園児と同レベルって言われてるみたい」
 頬をぷっと膨らませる紅薔薇さま。
「ははは。さて、令ちゃんから『型』借りてきたから」
 黄薔薇さまが、紙袋から銀色の筒を六つ取り出した。クッキーの型だ。
「同じ型が二つずつ。どれ選ぶ?」
 丸とハートと星。当然、角が多いほど抜きにくくなる。
 じゃあ、と、紅薔薇さまが星を、白薔薇さまがハートを選んだ。
「あの、お姉さま? それは難しいように思いますが?」
「可南子、型抜き苦手? ちゃんと教えてあげるから、大丈夫よ」
 放課後、うちで練習しましょう、なんて紅薔薇さまにさり気に誘われて、可南子さま、顔には出さないが、かなり機嫌がよさそうで。
「やれやれ、やっぱ紅薔薇さんちは甘々だねぇ」
 なんて、黄薔薇さまにからかわれていた。
「さて、じゃあ、今日はお開きだね」
 紅薔薇さまの言葉に、席を立つ人、数人。
「お茶、淹れますけど? いかがです?」
 そのうちの一人が、速攻で流しに向かった。
「……私は、いらない。今日、日直なんだ」
 ゴメンね、と、紅薔薇さま。続いて、可南子さまも席を立つ。
「白薔薇さまは?」
「私もいいわ。まだカップに残っているから」
「じゃあ、瞳子さまは? 由姉ぇも」
「ん、私はもらおうか……な?」
 視線を感じた黄薔薇さま、出入り口に目を向けると、ビスケット扉に手を掛けて振り向いたまま固まっている紅薔薇さまに気がついた。
「ゆ、祐巳さん?」
 紅薔薇さまは、厳しい視線を流しに向けていた。
 そして、強い口調で言い放ったのだった。
「貴女ねぇ、歌乃ちゃん。その『由姉ぇ』って呼び方、何とかならない?」
「何言ってんだか、祐巳さん。それじゃあ、まるで祥子……さまの……」
 その表情とその口調から、紅薔薇さまが本気で怒っているのがわかった黄薔薇さまは、そのまま口を閉じた。
 珍しく、失敗した……って表情を顔に出して。
「貴女が由乃さんの幼馴染みで、こんな早い時期から山百合会を手伝ってくれるのはありがたいけれど、それとこれとは別よ。外はで何と呼ぼうが構わないけれど、校内では『由乃さま』もしくは『黄薔薇さま』と呼びなさい」
 室内が、まるで水を打ったような静寂に包まれた。
 とはいえ、決して穏やかな雰囲気ではなかった。
 いうなれば、嵐の前の静けさ。
「あの、祐巳さま? それは……」
 瞳子さまが口を開くも、紅薔薇さまにキッと睨まれては、口を閉じるしかない。
 紅薔薇さまの、その瞳が潤んでいるのを、瞳子さまは見てしまったから。
「あのさ、祐巳さん。悪いけど、大きなお世話だよ。それ」
 黄薔薇さまの言葉に、紅薔薇さまは大きく目を見開いた。
 だから、涙が溢れんばかりに溜まった。
「貴女が、それを言う? 由乃さんが、それを言うの?」
 耐えられなくなった紅薔薇さまは、その足で廊下に出てしまった。
 開けた扉も、そのままに。
「……白薔薇さんちの焼き直し、わざわざしなくていいじゃん」
「違いますよ──」
 黄薔薇さまの呟きに、全く表情を変えない──でも、多分怒っている──可南子さまが答えた。
「何がさ。何が違うのよ?」
「去年の紅薔薇危機、色を変えて今年もやりますか? ああ、黄薔薇にはちゃんと呼び名がありましたか。黄薔薇革命とか──」
「可南子っ!」
 部屋の外から、紅薔薇さまの怒鳴り声がした。
 これほど怒りを露にしている紅薔薇さまが珍しいのか、他色の薔薇さまもつぼみたちも、完全にフリーズしていた。
「……出過ぎた口を叩いて、申し訳ありませんでした」
 黄薔薇さまに深々と一礼すると、可南子さまも部屋を出た。
 バタンと、強く扉を閉じて。


「なるほど、そっちだったか……」
「……ごめんなさい」
 頭を抱える黄薔薇さまと、何故か謝る黄薔薇のつぼみ──瞳子さま。
 黄薔薇さまは席を立ち、瞳子さまに近寄る。瞳子さまも、その場で立ち上がる。
「うん。あの時の瞳子は、私は未だに赦せない」
「え?」
 ガタンと椅子の音を立て、歌乃ちゃんも思わず立ち上がった。
 でも、黄薔薇さまは、言葉とは違った穏やかな笑顔を見せて、瞳子さまを抱き寄せていた。
「でも、それをひっくるめて、私は瞳子が好きだから」
「お姉さま……」
 瞳子さまの背中をポンポンと、子供をあやすように軽く叩く黄薔薇さま。
「歌乃が私を何て呼べばいいのかは、瞳子が決めなさい」
『えっ?』
 瞳子さまと歌乃ちゃんの声が揃った。
「瞳子が決めたものなら、誰にも文句は言わせないから。たとえ祐巳さんだって」
 黄薔薇さまは、瞳子さまの顔をじっと見つめ、そして心から微笑んだ。
「あとは、歌乃と二人で話し合いなさい。じっくりと……ね」
「はい。そう致しますわ」
「ん、よろしい。じゃあね」
 黄薔薇さまも、カバンを持って部屋を出た。
 残るは、瞳子さまと歌乃ちゃんの二人だけ。
「歌乃は……紅薔薇危機の事、知っていて?」
 腕時計を見ながら話す瞳子さま、もう一度席に着いた。まだ時間があるようだ。
「いえ、黄薔薇革命と呼ばれるものならば、多少は……」
「ああ、お姉さまの手術が絡んでいたから、お家の方から話は回るわね」
 ふうっと溜め息を一つ吐き、瞳子さまは口を開いた。


 瞳子さまの口から出た言葉の数々は、次々と歌乃ちゃんを驚愕させた。
 瞳子さまが入学した際の紅薔薇さま──小笠原祥子さまとの関係。
 その妹の祐巳さま──現・紅薔薇さま──と瞳子さまとの、確執めいた話。
 祥子さまの祖母が危篤に陥ったという事実を差し引いたとしても、二人の意識のすれ違いは激しく、今思えば、よく姉妹関係が崩壊しなかったものだと、当時を知るものは誰もが口を揃えて言うだろう。
 黄薔薇さま──祐巳さまの親友である由乃さまも、その一人なのだ。
「私は当時、祐巳さまを認めていなかったの。ウジウジイジイジ、言いたい事は何一つ言えず、さも自分だけが悲劇のヒロインぶって、全ての問題を一人で抱えて、内に閉じこもって……」
「ええっ? 言いたい放題やりたい放題の、あの紅薔薇さまが?」
「ええ。祥子さまに真実を聞く事も出来ずに。もっとも、私が介入していたから、それも出来なかったのでしょうね。私に、悪意があったから」
「悪意?」
「そう。祐巳さまは、祥子さまには相応しくないと思い込んでいたから。何とかして二人の仲を壊したい、割り込んでやりたいと、そう思っていたから──」
 瞳子さまの独白に、歌乃ちゃんは完全に言葉を失っていた。
「で、見事、祐巳さまはボロボロ。あとは私がその後釜に座ればいいだけだった」
 カップに残った冷め切った紅茶を飲み干し、瞳子さまが続けた。
「でも、本当にボロボロだったのは、祥子さまの方だったわ。お祖母さまを亡くされて、祐巳さまにも嫌われたと思い込まれて、食事が喉を通らないどころか、もう精神崩壊寸前だったの。でも祐巳さまは、何かきっかけを掴まれて、自力で立ち直っていらしたのよ。そして、祥子さまを救った。私には出来なかった事を、いとも簡単にやってのけた。二人の関係に依存していたのは、実は祥子さまの方だったなんて、私には思いもつかなかったのよ──」
 まるで懺悔のように、瞳子さまは語った。
 いつの間にか、歌乃ちゃんはポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
「……馬鹿ね。貴女が泣く事はないのに」
「だって、瞳子さま、それほど好きだったんでしょう? 祥子さまの事を」
「ええ。でも私の気持ちは嫉妬の絡んだ、汚いものだったから。今、私がお姉さま──由乃さまを想う気持ちのような、歌乃が『由姉ぇ』と慕うような、そんな純粋な想いじゃなかったから」
 だから、今自分がそんな事をされたら、何も出来ないでしょうね、と、瞳子さまは笑って言った。
「だから、私は何も強制しない。貴女が由乃さまをどう呼ぼうと、私に対する当て付けではないのだから」
「でも、ごめんなさい、瞳子さま。私のせいで可南子さまに嫌味を言われて」
「ああ、あの女は、純粋な祐巳さまの下僕だから。祐巳さまを傷つけようとする者は、たとえ祐巳さまのお姉さま──祥子さまであっても、赦しはしないのよ」
「……そんなぁ」
「だから、あの女にとって……いや、私たちは不倶戴天の敵同士なの。もっとも、あの女、過去に祐巳さまを傷つけた事──あの女が何をやっても、傷つく祐巳さまではないけれど──があって、あの女は自分自身も赦していない。だから、祐巳さまの命に対して、意見は言ってもノーはない。戒めのつもりでしょうけど、馬鹿な女よね。あの女も……」
 そう言いつつも、瞳子さまの目は怒りに燃えているという感じではなく、何故か哀れみを感じさせた。
 まるで、自分自身を見ているような──。
 それに気づいた歌乃ちゃんは、その瞳子さまの想いを、そっと胸に刻んだ。
 そして瞳子さまは、今までと打って変わった優しげな瞳で歌乃ちゃんに向いた。
「まあ、確かに私は強要はしないけれど、一体いつになったら呼んでくれるのかしらね?」
「え?」
「──私の事を『お姉さま』と」
「あ、あはは……」
 クラスメイトのお姉さん的存在である、クールで頼りになる歌乃ちゃんが、普段見せている表情とは全く違う、照れまくった笑顔で瞳子さまを見ていた。
 それは都たちには決して見せる事のない、彼女の『妹』としての顔だった。


「歌乃ちゃんが、隠し事をしている~?」
「声デカイよ、みやっち」
 ここ連日、お昼に用があるからと、歌乃ちゃんがお食事会(?)に参加しなくなり、都とハルちゃんはミルクホールでお弁当を食べていた。
 それぞれが自分の分しか作らない、味気ないお弁当を。
「だって、変だよ。部活も委員会もない歌乃っちが、だよ? 毎日お昼に用があるなんて」
「ひょっとして、ハルちゃん、それも『見える』の?」
 ハルちゃんは現役の巫女さんなので、人には見えないものも見えるという。
 もっとも、これはハルちゃんの家に行った、都と白薔薇のつぼみ──乃梨子さまだけの極秘事項であるのだが。
「私に見えるのは、生きて『いた』ものだけ。そんなのが見えたなら、もっと上手に世の中立ち回ってるよ。学校の中だって……ね」
 ちょっぴり腹立たしげに、ハルちゃんは紙パックの烏龍茶をすすった。
 世の中、見えないなら見えない方がいいって事は、それこそたくさんある。
 リリアンで『知らぬが仏』って言葉も、どうかと思うけれど……。
 それに『人間関係に攻略本なんてない』という姉の言葉が、都の脳裏を掠めた。
『見えるから楽だ』なんて、ハルちゃんを侮辱した発言だった。
 だから、都は心から謝罪した。
「ゴメン、ハルちゃん……」
「いや、別にいいんだけどね……」
 そう言うハルちゃんの怒りは、まだ納まりつかないって感じで、ストローを抜いた紙パックを足元に転がした。
「は、ハルちゃん?」
 リリアンの生徒には似つかわしくない動作で、床の上の紙パックを器用に足で転がして、テーブルの下に持ってくると、ハルちゃんは上履きの踵でそれを踏んだ。
『パーン!』と、まるで体育祭のピストルのような音がミルクホールに中に響いたけれど、何食わぬ顔でハルちゃんは食事を続けた。
「どうしてさぁ」
 語尾を荒らしたハルちゃんに、都は半分怯えていたかも知れない。
「な、何?」
「ここって、味噌汁だけ売ってくれないんだろうね?」
「え?」
「ほら、ランチセットには付いてくるのに、単品売りはないんだって」
 ぺちゃんこに潰れた紙パックを拾い上げ、やっとハルちゃんはニカッと笑った。
「私、どうも毎食お味噌汁ないとダメなんだよね。イライラしちゃってさ」
「じゃあ、修学旅行は大変ね」
『えっ?』
 それは、空から降ってきた、聖母の声。
 クスクスと笑っている、白薔薇さまだった。
 そして──。
「コラ。バカな事やってるんじゃないの」
 ハルちゃんの頭に、コツンと乃梨子さまの拳骨が降ってきた。
「何事かと思ったわよ。外まで音が聞こえたし、泣きそうな顔でミルクホールから飛び出てくる子もいて、出口はパニックだったわよ」
 ほとほと呆れたって顔の、乃梨子さま。
「まさか、リリアンで『ブリック潰し』やる子なんて……」
 潰れた紙パックを見た瞬間、乃梨子さまはハルちゃんが何をしたかを理解した。
「ねえ、乃梨子。そのパーンってヤツ、私にも出来るかしら?」
 ワクワクした表情の白薔薇さまに、乃梨子さまは頭を抱えた。
「リリアンは、こういったお嬢さま方の集まりなんだから。もう少し自覚なさい」
「はい、すみません」
 ぺろっと舌を出すハルちゃんの頭を、くしゃくしゃと撫でる乃梨子さま。
 なんだか『姉妹』みたいで、いいなぁ。
「さて、お姉さま。そろそろ行かないと」
「そうね……」
「あの、ご一緒……」
 都の言葉を、乃梨子さまは笑って遮った。
「悪いね、今度ヒマな時に誘ってよ」
「あ、そうそう」
 白薔薇さま、ハルちゃんの目の前に、小さな包みを置いた。
「あの美味しいお味噌汁には敵わないけれど、私が漬けたの。よかったら食べて」
 ごきげんよう、と、立ち去る姿も優雅な白薔薇姉妹。
 都も、思わず見惚れたりして──。
「……何だろ? これ」
 白薔薇さまが持つには少々派手なハンカチに包まれていたのは、眼鏡ケース半分ほどのサイズの、小さなタッパー。
 中には、大きくて真っ赤な梅干が数個。
 それを、迷わず口に放りこむハルちゃん。
「すっぱ~っ! でも、生き返るわぁ」
 死んでたの? じゃなくて。
「これ、私が漬けたって、言ったよねぇ? 白薔薇さま……」
「うん、美味し~っ! 今度、漬け方教えてもらお」
 何だか、着実に『逢う口実』を増やしていくハルちゃん──。
 いや、こんな考え方は、よくないな。
 気合を入れるため、都もタッパーに手を伸ばし、口の中に一粒放りこんだ。
 ──その中で、一番小さいものを。
「しかし、忙しそうだったね。乃梨子さまたち」
「マリア祭が近いから……かな?」
「マリア祭?」
 ハルちゃんには初めての事なので、都が一通り説明する事になった。
 マリア様の生誕月を記念して、通常授業の代わりにミサを行う事。
 ミサの後、山百合会主催の新入生歓迎会がある事。
「薔薇さま方の余興かぁ。そういえば、去年は宗教裁判だったって、乃梨子さまが言ってたなぁ……」
「今年は、歌のプレゼントらしいよ。でも、早朝のパレードが好きだな。私」
「パレード?」
「幼稚舎の園児たちがね、天使に扮してパレードするの。校内全てのマリア様を、お花で飾るために。それが可愛くて……」
「みやっちも、やったんだ?」
「うん。結構遠くまで来たなってのが、その時の感想なんだけどね。未だに覚えてるって事は、楽しかったんだと思うよ」
「参加は出来ないけど、見るだけ見るかな? そのパレード」
「うん、早起きする価値あるよ」
「……毎年、見てる口だな?」
 ハルちゃんに笑われたけど、今度の土曜、マリア祭の日は、普段より早くマリア様のお庭に集合する事に同意してくれた。


 放課後、歌乃ちゃんも誘ったけれど、忙しいからと断られてしまった──。


「歌?」
 銀杏並木で、思わずハルちゃんが訊ねた。
「ホントは『天使祝詞(しゅくし)』だけどね。アヴェ・マリアとも言うよ」
「祝詞か。神道じゃ、祝詞って書いて『のりと』って読むよ。で、どんなの?」
「うん。『愛でたし、聖寵満ち充てるマリア。主、御身とともに……』えっ?」
 歌いながらマリア様のお庭に差しかかると、物陰から長身の美少女が。
「か、可南子さま?」
「え? あ、今……」
 辺りを見回し、都たちのほかに数人の生徒が登校しているのを確認して、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「ああ、挨拶がまだだったわね。ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう、可南子さま……あ、あの?」
 都のタイを直し、リボンを直し、そっと微笑む可南子さま。
 そのお顔を見ただけで、都の頭の中が薔薇色になった。
「さあ、今のうちにお祈りしてらっしゃい」
 ポンと背中を押してくれたので、思わず都も元気が出た。
「はいっ!」
 ぺこりと会釈したハルちゃんにも、可南子さまは笑顔を向けてくれた。
「さっそく効いたね。マリア様の祝詞(のりと)」
「祝詞(しゅくし)だよ、ハルちゃん」
 マリア様にお祈りしながらも、都も思わず笑顔が出た。
 いや、もはや顔の筋肉が緩みっ放しで、他の表情が出来なくなっていたのだ。
「しかし、あれだけの迫力美人なら、軽く微笑むだけでクラッと来るよね」
「だ、ダメだからね、ハルちゃん。浮気したら」
「浮気って……」
 頭を抱えるハルちゃんだったが、そんな彼女も思わず振り向いた。
 舌っ足らずで甲高い声の、アヴェ・マリアの大合唱(叫び?)が聞こえたのだ。
「め~で~た~し~、せ~ちょ~、みちみてる~、ゆみさまだぁ~っ!」
『……祐巳さま?』
 マリア様じゃなくて?
 ふと振り返ると、可南子さまの横には、確かに紅薔薇さまがいた。
 天使に扮した園児たち、紅薔薇さまの姿を確認するや否や、我先にと駆け出したから、さあ大変。
 案の定、先頭切って走っていた大天使が、見事にコケた。
「あらら……」
 その子のところに行こうとした都だが、可南子さまに止められた。
「可南子さま?」
「いいから、見てらっしゃい」
 いつの間にか、紅薔薇さまがその子のところに歩み寄っていた。
 そして、助け起こすのかな……と思ったら、その子の前でしゃがみ込んだ。
「うぐっ、ひっく……」
 今にも泣き出しそうな子に向かって、紅薔薇さまは言い放った。
「あれ~? 泣くのかなぁ~?」
「な、なかないもん。ひっく」
「半分、泣いてるよ~?」
「はんぶんだもん、ぜんぶじゃないもん」
 コケた幼稚園児を挑発してる、紅薔薇さま。なんだかなぁ……。
「じゃあ、一人で立てるよね?」
「うん……」
 大天使は自力で立ち上がり、紅薔薇さまの前でしゃんとして見せた。
「うん、よく頑張ったね。偉かったね」
 まるでマリア様のような微笑を見せると、せっかく我慢していた涙をポロポロと流して、園児は大泣きしながら紅薔薇さまの胸に飛び込んでいった。
「あらあら……」
 そういいながらも、紅薔薇さまは園児をそっと抱きしめた──ら。
「もえか、ずるい。きよかもゆみさまとギュッとするの!」
 我も我もと、みんなが紅薔薇さまに抱きつこうとして押し寄せたので、さすがの紅薔薇さまもバランスを崩して、ぺたんと尻餅をついてしまった。
「わ、わ、わ。潰れるから。みんな、マリア様をお花で飾ろう」
『は~い!』
 シスターから事前に借りていた鍵で、可南子さまがマリア様正面の鎖を開けた。
「こら、慌てないの。一人ずつ順番に入りなさい」
 数人の園児を抱きかかえながら、立ち上がった紅薔薇さまが指示を飛ばす。
 すると、園児たちがいう事を聞くから、面白い。
「終わった子から、可南子お姉さんにお菓子をもらってね。順番にね」
『は~いっ!』
 一人ずつ、そら行け、と紅薔薇さまが送り出す。
「あっと、萌香(もえか)ちゃんは、ちょっと待って。ひざから血が出てるから」
 ポケットから白いガーゼのハンカチを取り出し、その子のひざに巻いた。
「ゆみさま、ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。さあ、萌香ちゃんも行きなさい」
「は~い!」
 鳴いたカラスが──である。
 彼女は元気にマリア様に駆け寄った。
 残るは、今の子にそっくりな園児が一人。双子かな?
「……きよかも、ゆみさまのはんかち、ほしい」
「う~ん、ハンカチかぁ……」
 さすがに枚数がないのか、紅薔薇さまはチラッと可南子さまを見た。
 すると可南子さま、ポケットから何かを取り出し、紅薔薇さまに手渡した。
「じゃあ、清香(きよか)ちゃんには、このリボンをあげる。大切にしてね」
 キュッと髪に結んでもらって、その子は上機嫌でマリア様へと駆け出した。
「さすがね、福沢さん。あの安座間(あざま)姉妹を自由自在に扱って」
 最後に残った──保育士の先生。徳増尚子(とくますなおこ)先生だ。
 幼稚舎時代、都の担任だった先生だから、入れ替わりで卒園された紅薔薇さまの担任でもあったようだ。
「ご無沙汰しております、徳増先生」
「また、今年も幼稚舎の慰問にいらしてね。あの子達、福沢さんの大ファンなの」
「あはは……。私なんて、精神年齢が近いだけですよ」
 ポリポリと頭を掻く紅薔薇さまは、スカートの砂を払ったばかりの手だった事に気づいて、苦笑いしていた。
「リリアンを卒業して、是非保育士になって欲しいわ。そこの天野さんと一緒に」
「ご存知……ですか。彼女の事」
「ええ。貴女とは違ったタイプだったけど、同じく人を集める子だったわ」
「違うタイプ?」
「傷ついた子とか、寂しい子とか、そういった子が集まって癒されていたわね」
「……確かに」
 何か思い当たるのか、紅薔薇さまは園児たちにクッキーの包みを配る可南子さまと、何故かそれを手伝っている都を見た。
「さて、ガキども引っ張って帰るか」
 徳増先生は、園児たちを引率して、幼稚舎へと戻って行った。
 高等部に来なかった園児たちの分のクッキーを手にして。
「さて、そろそろ教室行こうか、みやっち」
「そうだね……」
 このための準備をしていた紅薔薇さまがたとは違って、都たちはまだ通学途中。
「じゃあ、お先に失礼致します」
「お待ちなさい」
 ぺこりと頭を下げ、校舎に向かおうとする都たちを、可南子さまが呼び止めた。
 そしてポケットから、さっき園児たちに配っていたクッキーの包みを取り出し、都とハルちゃんに一つずつ手渡した。
「マリア様のご加護がありますように」
 にっこりと微笑む可南子さまの後ろで、紅薔薇さまが大笑いしていた──。


 ミサの後、昼食後の新入生歓迎会は、完全に生徒たちだけのイベントだった。
 お聖堂には、一年生全員と、数名の上級生たちだけ。
 教師はもちろん、シスターもいなかった。
 信頼されているというか、何というか。
 そんなだから、ハルちゃんはポケットから包みを取り出して、会の準備の間を狙いすまして、ポリポリと食べていた。
 包みの中には、丸と星とハートの形をしたクッキーが、一枚ずつ入っていた。
「ハル、何やってんのよ……って、その包みは?」
 後ろの席の歌乃ちゃんに注意されたハルちゃん、ニカッと笑った。
「ああ、これ? 今朝、紅薔薇さまの手伝いを(みやっちが)して、そのご褒美」
「あ、ああ、そうなの……」
「歌乃っちも、食う?」
「いえ、結構よ。クッキーなんて、当分見たくもないわ」
「?」
 黄薔薇家担当の丸いクッキー、計百枚、黄薔薇さまのお宅で作ったとの事。
 ──ほとんど、歌乃ちゃんが、一人で。
「まあ、いいや。歌乃っち、お茶持ってる?」
「……訳ないでしょ。ほら、始まるわよ」
 壇上に上がる紅薔薇さま、何故かきょとんって顔をした。
 それもそのはず。本来なら、もう帰っていいはずの上級生たち、二年生や三年生のほとんどが、お聖堂を覗きに来ていたのだから。
 今年の薔薇さま方は、何かをやってくれる。そんな期待の表れだった。
『えっと、新入生のみなさん。入学、おめでとう……』
 事前に用意していた封筒の中から祝辞の書いた紙を取り出し、それを読み上げるのだろう……が、紅薔薇さまは、何故か空中の何もないところを見つめていた。
『もう入学して一ヶ月も経つんだから、今更おめでとうもないよね。どう? リリアンには、高等部には、もう慣れたかな?』
 気さくに話しかける紅薔薇さまに、一年生は戸惑いながらも話を聞き入った。
『ここは、本当に面白いところだから、みんなも三年間、存分に楽しんで下さい。何せ山百合会──リリアン高等部生徒会からして、こんなだから……』
 先程、封筒から取り出した紙を広げ、紅薔薇さまは一年生に見せてくれた。
 B3サイズの用紙には、赤マジックで大きく『ハズレ!』と書いてあった。
 これには、真剣に話を聞き入っていた生徒たちも、大笑いだった。
『では、記念におメダイの贈呈を……』
 控えていた黄薔薇さまが、クスクス笑いながら、会を進行させた。
 一クラスずつ一列に並んで、薔薇さま方からメダルのような物をかけてもらう。
 李組は紅薔薇さまに、藤組は黄薔薇さまに、菊組は白薔薇さまに。
 続いて、桃組、松組、椿組と。
 桃組の都たちは、紅薔薇さまの列だった。
「マリア様のご加護がありますように」
 薔薇さま方は、一年生一人一人にそう言って、おメダイを首にかけていく。
「マリア様のご加護がありますように。……って、こら、みゃあちゃん」
「み、みゃあちゃん?」
 紅薔薇さまの言葉に、都は思わず彼女を見た。
 都のみならず、隣の列や、その隣の列の一年生たちも、紅薔薇さまを見つめた。
 ──という事は、都は今まで紅薔薇さまを見ていなかったという事で。
「一応、私がおメダイ贈呈してるんだから、私に向いて欲しいな。可南子じゃなくてさぁ」
 おメダイを首にかける際に、耳元でそう言われて、申し訳ないのと恥ずかしいのとで、都は顔が真っ赤になった。
 遠目で見ると、キスしているようにも見えたのだろうか、所々で悲鳴のような声が上がっていたけれど──。
 そして、おメダイ授与は進んでいき、桃組はハルちゃんの番。
「こら、何食べてるのよ。式の最中に」
 口元にクッキーの粉がついていたのを、紅薔薇さまは見逃さなかった。
「で、丸と星とハート、どれが美味しかった?」
「えへへ……」
 ポケットから包みを出したハルちゃん。中にはハート型のが残っていた。
「これ、もったいなくって、食べられなかったです」
「ん、正解。でも、食べてあげなさいね」
 ハート型は、白薔薇家謹製。半々の確率で、乃梨子さま作を引き当てたらしい。
 何故、それがわかったのかは、ハルちゃんは教えてくれなかった。
 そして、また列は進み、今度は歌乃ちゃんの番。
「マリア様のご加護が……」
 手も口も、途中で止まる紅薔薇さま。
 それもそのはず。
 今からおメダイをかける首には、すでにロザリオの鎖があったのだ。
「……そういう事は、早く言いなさい」
 そう言って紅薔薇さまは、歌乃ちゃんのおでこをコツンと突いた。
「ははは、すみません……」
「まあ、いいわ。仲よくね」


 あとは、滞りもなく、おメダイ授与が終了。
 黄薔薇のつぼみ──瞳子さまのヴァイオリン演奏に合わせて、アンジェ(本人にそう呼べと念を押された)さまの歌がお聖堂に流れた。
 まさに、天使が舞い降りてくるような、そんな気分になった。
 特に圧巻だったのは、グノーのアヴェ・マリア。
 歌いながら席に近づいたアンジェさまは、合唱部の福原友絵さんを引っ張り出して、一緒に歌うように指示。
 白薔薇さまのオルガン演奏と合わせて、四声の大合唱となった。
 歌が終わると、友絵さんは感極まって泣き出し、会場は割れんばかりの大喝采。
 でも、それで終わり──のはずだった新入生歓迎会は、アンジェさまの奇行で、更なる盛り上がりを見せるのだった。
 壇上に上がったアンジェさま、ドンドンと足を踏み鳴らしたと思ったら、大きく手を一回叩き、それを繰り返す。
 ドンドンパン、ドンドンパン。
 そして、場内全員にそれを促す。
「あのねぇ、アンジェ。クイーンのライヴじゃないんだから……」
「さあ、ユ~ミ、歌いまショーね~」
「……しかも、私か」
 アンジェさまに壇上に引き上げられた紅薔薇さま、頭をポリポリ掻きながらも、マイクを握って、そして歌いだした。

『Buddy, you're a boy makin' big noise playing on the street
 gonna be a big man some day You got mud on your face
 Big Disgrase Kickin' your can all over the place
 Singin'!!』
『We will, we will Rock you! We will, we will Rock you!』

 紅薔薇さまの合図で、アンジェさまも歌いだす。
 この歌って、サッカーの大きな試合とか、観客席でみんなで歌ってるヤツだ。
 しかも、アンジェさまの部分だったら、都にもみんなにも歌えるし……というか歌えって?

『Singin'!!』
『We will, we will Rock you!』

 いいのかなぁ? こんなんで。
 確かに、面白いけれど……。
 お聖堂でのロックコンサートは、当分終わりそうになかった。


à suivre...