Heaven's Gate #4

 


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 背の高い校門よりも、はるかに高いテンションの乙女たちの挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
 目は一様に充血し、まぶたは腫れぼったい。
 しかし、そのテンションの高さは、昨夜悲しい事があって一晩泣き明かした──というワケではなさそうだ。
 それが証拠に、みな一様に、何か大きな事をやり遂げたという達成感と、それの結果に対する満足感が、表面にまざまざと滲み出ていた。
 ──みな一様に?
 そう、一人ではなく数人が同じような状態で、登校する生徒たちに次々とビラを配り歩いているのだ。
 そして、それを見たり読んだりした生徒たちが興奮し、登校して来る友人を見つけては話を盛り上げていく。
 マリア様のお庭に着く頃には、生徒のほとんどがテンションMAXになった。


「ごきげんよう、都さん」
 その中の一人に、都は声をかけられた。
「あ、ごきげんよう、京華さん。どうしたの? その顔……」
 クラスメイトで新聞部所属の、地野京華さんだった。
「ん、ちょっと寝不足。朝早かったから……」
「ふーん、そうなんだぁ。じゃあ……」
「……っと、待ってよ」
 昨日の今日だから、この場は早急に立ち去りたいところだ。
 校門からマリア様のお庭にかけての銀杏並木で、紙を配るテンションの高い生徒たちといったら、新聞部員以外にはありえないのだ。
 そして、配っている物といったら、言わずと知れた『リリアンかわら版』。
 昨日、試し刷りを頂いた、アレである。
 京華さんは、都をマリア様のお庭の片隅に引きずり込むと、一枚の紙を渡した。
「はい、コレ。よかったら読んでよ」
「かわら版……よくなくても、読むわよ」
「あはは~っ! やっぱり都さんって、いいねぇ」
 何が? と、ツッコミの一つでも入れたいところだが、ハイテンション・ガールには敵わない気がしたので、やめておいた。
「あ、お姉さま。こっちです~!」
 都の腕を掴んだまま、京華さんは自分のお姉さまを呼んだ。
「貴女が、天野都さん? 私は二年椿組の山南夏芽。よろしくね」
「あ、はい。よろしくお願い致します」
 思わずぺこりと頭を下げていた。
 条件反射って、恐ろしい……というか、幼稚舎より培ってきた上級生のお姉さまに対する『礼儀正しさ』が、こんな時は恨めしい。
「つぼみに関する記事は、私がメインで書く事になっているの。だから、貴女とも頻繁に顔を合わせるかも知れないわね」
 そんな事を言われても、都はなんて答えていいのかわからない。
「まあ、あんまりヒドイ記事や醜聞めいた事は書きたくないから、出来るなら協力して欲しいって事で。京華と仲良くしてくれれば、それでいいから」
 じゃあ、と、夏芽さまは立ち去られた。
 今しがた登校して来た生徒のところへ走っていったのだ。
「仲良く……って?」
 都は思わず京華さんと顔を見合わせた。
 すると、京華さんはニコリと微笑んだ。
「吊るし上げや晒し者にはしない。約束する」
 片手を挙げ、宣誓する京華さん。
「いや、そうじゃなくて……」
 元よりケンカする気はないから、別にいいんだけど。
 それよりも、こんな平凡な一生徒、かわら版のネタにしなくてもいいのに。
 つぼみの情報といったって、夏芽さまの方がお詳しいに決まっている。
 都たち一般生徒は、毎週発刊されるかわら版の情報を元に、あれやこれやと想像を膨らませて──。
 そこまで思い巡らせた途端、急に手にした紙が重くなった。
 そう、このかわら版には、紅薔薇のつぼみと都とのツーショットが……。
「ねえねえ、都さん。読んでみてよ。私の書いた記事、結構いいでしょ?」
 京華さんが書いた……記事?
 言われて紙面に目を落とすと、いきなり四倍角の見出しが飛び込んで来た。


『白薔薇のつぼみ、妹候補と急接近?!』


 ご丁寧にも、その後ろには小さな文字で『か?』と、疑問形にしてあるのだが。
「こ、これって……? えぇ~っ?」
 昨日の放課後、講堂の裏で都たちが覗き見をしていたシーン、そのまんま。
 乃梨子さまとハルちゃんの、仲睦まじく手と手を取り合うその姿が、大きく一面を飾っていたのだ。
「ど、ど、ど……」
「どう? いい出来でしょ? その写真」
 こちらは睡眠時間をたっぷり取ったと、お肌つやつやなお顔の写真部ルーキー、夏目史香さん。
「これ……昨日の今日で、現像とか間に合うの?」
「ああ、私のカメラ、デジタルだもん」
 デジカメっていったら、都でも使えるような、小さくて可愛らしい物を想像してしまうが、史香さんの手にするカメラは、写真部の部長・武嶋蔦子さまがお持ちの高級一眼レフと、なんら変わらなく見える。
「撮ったその場で、即行動。銀塩もいいけど、報道にはコレよ。コレ」
 そうか、史香さんは報道カメラマンを目指しているのか……じゃなくて。
「大変だったのよぉ。あれからすぐ記事を書き起こして、史香さんと一緒にゲラ版持って薔薇の館へ。薔薇さま方が残っていてくれて、助かったわ」
 という事は、薔薇さま方公認の記事な訳ね、これ。
 記事を読み進めていくと、確かに白薔薇さまの公式発言が載っていた。
「なになに──『この件に関して、何も言う事はないわ』ですか? 白薔薇さま、さじ投げてますね?」
「都さん、声出てるし……」
「え? あ……」
 誰かに聞かれては一大事。思わず都はきょろきょろとしてしまった。
 そして、記事の続きに目を落とした。
「『ただ、白薔薇家・最大の懸念を払拭するためには、この一年生に迷惑がかかってはならないから。みなさんが休み時間のたびに一年の教室に集まる──なんて事がないようにして頂きたいわね』と、白薔薇さまは強く仰った。この件に関し、我がリリアンかわら版編集部は、全力を挙げて調査・報告をする所存なので、次号を期待して頂くとともに、くれぐれも『早まった行動』を起こさないよう、生徒諸姉には切に希望するものである。(文責:地野京華)──かぁ」
 なるほど、これで生徒が一年桃組に鈴なりになる事はないだろう。
 しかし……。
「ねえ、京華さん。この『白薔薇家・最大の懸念』って、何だろうね?」
「それは……って、危ない危ない。やっぱり都さんは侮れないわっ」
 思わず何か喋りそうになった京華さんは、慌てて口を閉じた。
 別にカマをかけようと思った訳ではないのだが。


「ごきげんよう。こんなところで井戸端会議?」
 片隅とはいえ、マリア様のお庭を『こんなとこ』呼ばわりする罰当たりは、一人しか知らない。
「あ、ハルさん、ごきげんよう」
 さっそく、たった今登校して来たばかりのハルちゃんに群がる京華さん──って一人だけだけど。
「ねえ、ハルさん、読んでくれた?」
「ん? これ?」
 ハルちゃんの手にも、かわら版があった。
「うん、よく書けてるね……っていうか、恥ずかしいな。やっぱ」
「で、ハルさんは、どう? 白薔薇のつぼみの『妹』になる気はあるの?」
 詰め寄る……というより、取材か?
 京華さんの手には、いつの間にかメモとペンが握られていた。
 月並みな感想でいいなら、と、ハルちゃんは前置きした。
「あんな人が『お姉さま』だったら、いいよね」
 その場の誰もが、都も含めて頷いた。
 その容姿といい、学力といい、知名度といい、もちろん一般に知られている性格といい、二年生の中ではトップクラスの乃梨子さま。
 一年生の絶大な人気『姉にしたい人ナンバーワン』を誇っている。
「う~っ、ハルさんの裏切り者っ!」
「え?」
 振り向くと、クラスメイトの小林葵(こばやしあおい)さんが、小さなカバンを上段に構えて、今にも振り下ろそうとしていた。
「ハルさんだけは、私の味方だと思っていたのに~っ」
 軽くヒスを起こしながら、葵さんはカバンでハルちゃんを叩く。
 毎日必ず持ち歩いている、お手製のキルティング素材のトートバッグで。
「い? そんな、盟約とか結んだわけじゃないし。葵っち、痛いって」
 苦笑しながら、ハルちゃんは葵さんを軽くいなしている。
 葵さんは、ハルちゃんと同じく高等部からの編入で、女子校という環境に慣れていない──というより、ハルちゃんのように積極的に慣れようとはしない。
 入学当初は仕方なく通っている感がありありと見えたが、一ヶ月が経過した今、ハルちゃんと親しくなったためか、クラスにも馴染んで来ている。
「ハルさんは『お姉さま』なんて作っちゃダメ。女子校に馴染んじゃダメ」
「あ、あのさ、葵さん?」
 そう言ってる葵さん、仲のいい友達に『お姉さま』が出来て、少しずつ疎外感を感じていくという、典型的なリリアン生徒の発言なんですけど?
「み、都さんにも渡さないわ。ハルさんは私のものよ」
 ……何処まで本気なんだか。
「いや、カバンで叩くのは、痛そうだから。それに、大事なものじゃないの?」
「これ? うん、大事よ」
 長さ三〇センチはあろうかというケースの中には、二つに折れた──フルート?
「あ、葵さん、折れてるよ、これ。こんな大事なもの、振り回すから……」
「都さん……マジで言ってる?」
「へ?」
 慌てたのは、どうやら都だけ。
「フルートって、分解して持ち運ぶのよ。知らなかった?」
「え? ええっ?」
 二本だと思っていたけれど、実は三本に別れていた。
 葵さんは器用にそれを繋ぎ、一本の『フルート』にすると、ドレミファソ~と、軽く奏でた。その綺麗な音色に、思わずうっとりとしてしまう。
「ねえねえ、葵さん。『マリア様の心』吹いてよ」
「えっと……どんな曲?」
 都の言葉に、葵さんはハルちゃんと顔を見合わせる。
 けれど幼稚舎でしか習わないのか、中学編入組の京華さんや史香さんも知らないといった顔をした。
「みやっち、歌ってみてよ」
「え? は、恥ずかしいな。歌、苦手だし……」
 でも、誰も知らないんじゃ、仕方がない。
 都は、思いっきり息を吸い込んだ。
 そして──。


「まりあさまのこころ、それは──」


 思わぬ方から、歌声がした。
『えっ?』
 みんなが都に集中していたため、誰も気づかなかったのだ。
 都の後ろに、紅薔薇さまがいた──なんて事は。
 神出鬼没な紅薔薇さまは、軽くワルツのステップを踏みながら、歌いながら去っていった。
「えっと……えぇ?」
 呆気に取られた都たち。
「ふふふっ。史香もまだまだ甘いなぁ」
 史香さんの後ろの茂みがガサガサと音を立てた──と思ったら、武嶋蔦子さまと山口真美さまが出て来た。いつ、こんなところに入ったんだろう?
「シャッターチャンスは逃さない。これぞ報道カメラマンの鉄則」
「京華も後ろ手で文字が書けるようにならなくちゃ、瞬時に記事は書けないわね」
 手を後ろで組んでいる真美さま──の後ろから、メモ書きする音が聞こえる。
 そして、蔦子さまのカメラからは、当然のようにフィルムの巻き取り音が。
「もっと精進なさい。それじゃ、ごきげんよう」
 神出鬼没な人を追うには、自らも神出鬼没にならねばならない。
 そんな事を、身をもって教えてくれる大先輩方。
『いつか、あのようになってみせる』と、拳を握り締めている一年桃組報道コンビには悪いが、あんなとんでもない先輩が周りにいなくてよかった──と、都はホッと胸を撫で下ろしていた。
「しかし……あ、葵っち、フルート片付けなよ」
「あ、うん」
 やっぱり冷静なハルちゃんが、みんなを現実の世界に引き戻してくれた。
「しかし、京華さんたちには悪いけど、私たち、お姉さまいなくてよかったな」
 思わず頷いた都と、ムッとする彼女たち。
「じゃあ、都さんは『お姉さま』欲しくない訳?」
「いや、欲しくないって訳じゃないけど、まだピンと来ないよ」
 都は部活をやっていないので、上級生と接する機会がない。
 噂が先行するのは、各部活──特に運動部のエース級と、薔薇さまのつぼみたちだけなので、結局は手に届かない高嶺の花なのだ。
「私、都さんだったら、お姉さまになってあげてもいいな」
 葵さんが、いきなりブッ飛んだ発言をした。
「ねえ、都さん、私の妹にならない?」
「あ、あの、葵さん? 私たち、同級生だし……」
「ダメだよ、葵っち。みやっちには、私がいるんだから」
 は、ハルちゃんまでもが、話に乗ってしまった。
 こうなると、もう収拾がつかない。
 ワイドショーのレポーターと化した京華さんは、マイクに見立てたシャーペンを都に突きつけ「どちらを選ぶんですか?」などとインタビューするし、史香さんはここぞとばかりに写真を撮りまくる。
「さあ、みやっち、私のロザリオを受け取りなさい」
「いいえ、私のロザリオこそ、可憐な都さんに相応しい……わ?」
 いきなり、葵さんが凍りついた。
 そして、京華さんも史香さんも、そのままのポーズで固まった。
「ロ、ロ、ロ……」
「ロシアン・ルーレット?」
 ブンブンと首を振る京華さん。
「……朝から随分と、楽しそうね」
 天から降り下りたその声は、まるで地の底から聞こえるようだった。
「か、可南子さま?! ご、ごきげんよう……」
「そうね、貴女には名前で呼んでもらおうと思っていたところだったけれど……」
 感情も抑揚も何もない、いわゆる冷酷な口調でそう言うと、可南子さまは挨拶も何もかもスッ飛ばし、ご自分のカバンを都に突きつけた。
 都が両手で受け取ると、まるで能面のような無表情なお顔で、可南子さまは都のタイに手を伸ばす。
 そして、形を整え終えると、抱きしめるような格好で、ポニーテールのリボンの形を整えた。
 格好だけ見れば、手の中にあるリリアンかわら版の記事や写真と全く同じ。
 ただ、可南子さまの表情が──冷たいどころの騒ぎではない。
「あの、紅薔薇のつぼみ」
 多少の事では動じないハルちゃんが、可南子さまに声をかけた。
 可南子さま、目だけを動かし、ハルちゃんをジロッと一瞥。
「あの、さっきのは冗談ですから。私たち、全員同じクラスで、同級生で……」
 さすがのハルちゃんも、可南子さまの威圧感に負けていた。
 でも、可南子さまはハルちゃんの言葉を聞き終えても、眉一つ動かさない。
 それどころか無表情な顔のまま都に手を差し出し、カバンを受け取ると、くるりと踵を返してしまった。
「か、可南子さま?」
 思わず都が声をかけると、可南子さまはその場で立ち止まった。
「その件で、貴女には迷惑をかけないから」
 背を向けたまま、可南子さまはそう言って、そのまま歩いて行ってしまった。
 あとに残された都たちは、ただ唖然とするばかりだった。
「……記事と、違うよね。やっぱ……」
 誰がそう言ったのか、都にはわからない。
 もう、何も考えられなくなってしまったのだ。
 昨日は、あんな極上の笑顔を見せてくれたのに……。
「私、可南子さまに、嫌われたんだね……」
 落胆どころか、全ての物を落としたかように、ふらふらと都は歩き出した。
 そんな都に、誰も声をかける事が出来なかった。


 何処をどう歩いたのか全く覚えがないが、教室の自分の席には辿り着いていた。
 しかも、いつの間にか、お昼休みだという。
「みや。お昼、行くよ?」
 歌乃ちゃんが声をかけてくれたが、都は立つ気力すらない。
 都は机に伏せたまま、お弁当の包みだけを通路に差し出した。
 しかしながら歌乃ちゃんは、そんな都の腕を絡め取るように肩に担ぐと、そのまま背中に背負って立ち上がった。
 その姿は、まるで柔道の一本背負いのよう──。
「ハル、そこにシート敷いて」
「あ、うん……」
 ハルちゃんが教室の後方の窓際にレジャーシートを敷き、歌乃ちゃんは都をその場所に降ろした。
「さあ、ご飯食べるよ」
 強い口調で促され、都は渋々お弁当の包みを開けた。
 でも、一向に箸が進まない。
「あのさあ、みや。キツイ事言うようだけどね?」
 今朝の出来事、歌乃ちゃんはハルちゃんに一部始終聞いていたらしい。
「みや、紅薔薇のつぼみに嫌われたって?」
 声も出せず、ただ頷く都。
「じゃあ、聞くけどさ。みやって、紅薔薇のつぼみに、いつ『好かれた』の?」
「へ? った」
 何も刺してないフォークを口に運んで、都は自分の上唇を刺してしまった。
  思わず口を押さえ、目を見開いて歌乃ちゃんを見つめた。
「だって『嫌われる』って事は、その前に『好かれる』がないと、変でしょう?」
 確かに歌乃ちゃんの言う通りだけれど『好かれる』前に『嫌われる』事だって、往々にしてあると思う。
「直接、紅薔薇のつぼみに訊いた訳じゃないんでしょ? だったら、大丈夫よ」
 理由も根拠も全くないけれど、歌乃ちゃんにそう言われると、本当に大丈夫な気がするから不思議だ。
 普段は物静かで多くを語らない人だけに、ここ一番の説得力はすごい物がある。
 対してハルちゃんは、自らの行動で説得力を増すタイプ。
 そんな二人に挟まれると、自然とそんな気になる。
「……今日は、ご機嫌がよろしくなかっただけよね?」
「つ~か、あれが『普段』の紅薔薇のつぼみじゃないの?」
 噂通りの──と、ハルちゃんが続けた。
 確かに、みんなが持っている可南子さまのイメージを総合すると、今朝の可南子さまの通りとなる。
 でも、都は知っている。
 可南子さまは、とても温かく、優しく微笑まれる──って事を。
 でも、それももう見られない。
 可南子さまは、仮面を被ってしまったから。
『紅薔薇のつぼみ』という、仮面を。
 都は、大きく溜め息を一つ吐くと、ハルちゃんのお味噌汁をズズズッとはしたなくも大きな音を立てて、一気にすすった。
 一粒、流れ落ちた涙と一緒に。


 二年椿組。
 机の上に広げたお弁当を目の前にしながら、虚空を見つめる、そのお方。
「……可南子さんってば」
 急に肩を掴まれて、可南子さまはキッと相手を睨んだ。
 その視線の先には、新聞部の山南夏芽さま。
「一桃、見て来たけど、取り敢えず落ち着いてたわよ」
「……私には、関係ないわ」
「……な訳ないじゃん、そんな顔して」
 今朝の話で、可南子さまを怒らせてしまったと、妹の京華さんから泣きが入り、夏芽さまも気にかけていたらしい。
「この顔は、生まれつきなんです。放っておいて下さいな」
「珍しく薔薇の館にも行かず、教室でお弁当を広げたと思ったら、ただ広げてるだけで、意識はここにあらず。そんな紅薔薇のつぼみ、見た事ないわ」
「私だって、なりたくて『つぼみ』になったわけじゃないわ。ただ、お姉さまが、薔薇さまとなるお方だった──それだけの話よ」
「やれやれ、重症だわ」
 夏芽さまは、可南子さまの前席に腰を下ろして、後ろを向いた。
「そんなに、あの子達の『姉妹ごっこ』がキツかったの?」
「……私、まだあの子を『妹』にするなんて事は、考えていないから」
「え? 嘘……でしょ?」
 目が点になる夏芽さまを、可南子さまは無視して話を進めた。
「だから、あの子が、誰を『姉』にしようが、私には関係ないのよ」
「だって、同級生よ?『姉妹』になれる訳がないわ」
「学校も性別も違うけれど、双子じゃないのに同級生で実のご姉弟って方を知っているわ。だったら、別に同級生で『姉妹』であっても、何ら不思議じゃないもの」
「……先越されるのを恐れてる訳? だったら、まずは行動でしょ?」
「私は、お姉さまより大切だと思わない限り、誰であろうと『妹』にはしないわ。でなければ、必ず蔑ろにしてしまうもの。その子の事を……」
「そりゃ、無理だわ、可南子さん」
 夏芽さま、思わず苦笑した。
「可南子さんが、祐巳さまより大切に出来る人間なんて、この世に存在しないじゃない。そんなんじゃ『妹』持つなんて、永遠に無理よ」
「夏芽さんは……」
 ふと問いかけて、可南子さまは口を閉じてしまった。
「いいわ、何でもない。忘れて頂戴」
 姉妹の形なんて、百組あれば百通り。
 紅薔薇さまのお言葉を、思わず噛み締めてしまったらしい。
「まあ、何かあったら相談に乗るわよ。取り敢えず『姉』と『妹』の両方を持つ身として──ね」
 そう言い残し、夏芽さまは教室を出た。
 残された可南子さまは、大きな溜め息を一つ吐くと、無理やりといった感じで、食事を口に押し込めるのだった。


 放課後。
 紙面で白薔薇さまの言った通りに、今朝、可南子さまが都に言い残されたお言葉通りに、かわら版の事で都たちに直接詰め寄る生徒というのは、皆無だった。
 もっとも、遠巻きに好奇の目で見られていたのは、仕方ないとしても。
 掃除のために音楽室に向かう廊下でも、やっぱり視線が痛かった。
 そして、音楽室。
 さすがに、扉を閉め切ってしまえば、完全防音。
 文字通り『外野の騒音』は入って来ない。
 ここには、都の力になってくれるクラスメイトだけ──。
「ひっ!」
『えっ?』
 机を拭いていた真崎鈴さんが、声にならない悲鳴を上げた。
『鈴さん? どうなさった……の?』
 渚さん、繭さんの内田姉妹も、鈴さんに駆け寄り、そして固まった。
 何か……いるのかな? そこに。
「どうしたの? ゴキブリでもいたの……おぉっ?」
 ゴキブリなんて、とんでもなかった。
 三人掛けの長椅子に横たわる、眠れる森の美女。
 何故か、紅薔薇さまが、ここで眠っていらしたのだ。
「えっと……どうしよう?」
 思わず小声になる都だが、元より紅薔薇さまファンの鈴さんは、涙をボロボロと流しながら両手を合わせて拝んでいる。
 確かに、生きたマリア様がここで寝ていらしたら、手を合わせて拝むけれど。
 耳にヘッドホンをかけて、美しい寝顔を披露なさっている紅薔薇さまを、起こすなんて事は考えもつかず、都たちは取り敢えず音を立てず、埃も立てず、緊張しながら掃除を続ける事にした。
「ごきげんよう……って、まだ掃除が終わってないんですの?」
 赤毛に縦ロールが麗しい、黄薔薇のつぼみこと松平瞳子さまが、ヴァイオリンのケースを抱えて音楽室に入って来た。
「Chao! Sorelle!ユ~ミ、ドコですカ~?」
 明るく陽気なイタリアの歌姫、留学生のアンジェリカ・ヴェイユさまも、瞳子さまのあとに続いて入って来て、いきなりピアノの鍵盤カバーを開けた。
「ユ~ミ、いまセンカ~?」
「そんなところに入れる訳がないでしょう、アンジェ。常識でお考えなさいな」
「ユ~ミなら、ワカリまセン。伸縮自在ネ」
「それを言うなら『神出鬼没』ですわ。変な言葉ばかり覚えて……」
「日本語、ムツカシイでス……」
 とはいえ、瞳子さまが紅薔薇さまを見つけるのも、そう時間はかからなかった。
「……相変わらず、このお方は。人の苦労というものを、一切お考えなしで……」
 瞳子さま、ケースからヴァイオリンを取り出して、適当に弦を張るとウクレレのように抱えて、紅薔薇さまの耳元でいきなりピチカート奏法で弾き出した。
 当然、ヘッドホンを取って。
 カンカンカン……と、連続する金属音──。
 それに気づいたアンジェリカさま、ガタガタと長椅子を揺すった。
 これって……踏切?
「え? 電車、来た?」
 慌てて飛び起きる紅薔薇さまに、アンジェリカさまは大笑い。
「あ、アンジェ。モーニン。瞳子ちゃんも、おはよう……」
「『おはよう』じゃありませんわ、祐巳さま。ただでさえ時間がないんですから、おふざけも大概にして頂きませんと」
 そんな瞳子さまの言葉を聞いてか聞かずか、椅子に座り直した紅薔薇さまは、大きく伸びをするとともに、あくびまで。
 なんだか、ネコみたい。
「さて、志摩子さん来てないけど、始めますか」
 そう言って、紅薔薇さまは、ピアノへと向かった。
「祐巳さま、弾けますの?」
「クラシックは無理だけどね。でも指が覚えてるから、簡単なポップスくらいなら大丈夫だよ。ほら」
 ポーンと単音。Aの音。
「仕方ありませんわね。低俗なポップスなんて、私の趣味じゃありませんのに」
 ブツブツ言いながら、瞳子さまはヴァイオリンを構えてチューニングを始めた。
「ユ~ミ、ナニか歌ってクダサ~イ」
「え? アンジェの前で? 仕方ないなぁ……」
 ピアノにひじをつき、頬杖ついてニコニコと『天使の笑顔』を向けるアンジェリカさまには、紅薔薇さまも敵わないとみえ、何かアルペジオのように弾き出した。
 同時に目を閉じて、何か思い出すように歌いだした。
「……Tonight I'm gonna have myself a real good time. I feel alive ──」
「Wow!」
「……」
 紅薔薇さまの歌声に目を丸くしたアンジェリカさま、途端に碧い瞳をキラキラと輝かせ、満足そうに曲に合わせて身体を揺する。
 それとは対照的に、瞳子さまはヴァイオリンを肩とあごに挟んだまま、渋い顔で腕組みをなさっていた。
「And floating around in ecstasy. So ──」
『don't stop me now, don't stop me ──』
 ゆったりとしたテンポでの、紅薔薇さまとアンジェさまの、天使の歌声のようなハーモニーも、ここまでだった。
『'Cause I'm having a good time, having a good time』
 鍵盤を叩きつけるように、コード弾きに切り替えた演奏は、ロックンロール。
 アンジェリカさまが、ノリノリで歌いだす。
「I'm a shooting star leaping through the sky. Like a tiger defying the laws of gravity ──」
 アンジェリカさまのお名前は、英語読みなら『エンジェリック・ヴォイス』。
 イタリアの至宝である『天使の声』が、まさか、ロックのヴォーカルを……?
「Don't stop me, don't stop me, don't stop me」
「Hey! Hey! Hey!」
「Don't stop me, don't stop me, don't stop me」
『ooh! ooh! ooh!』
「I like it!」
 歌いながら、紅薔薇さまの視線が、アンジェリカさまの視線が瞳子さまを誘っているようにも見えた。
「私のグァルネリは、こんな演奏をする楽器ではありませんのに……」
 ブツブツと文句を言いながら、それでも瞳子さまも、曲に合わせて演奏を重ねていく。
 ピアノに負けないほど強く、ビブラートを思いっきり効かせて──まるでエレキギターの音色に似せて。
 そんな瞳子さまの演奏に、紅薔薇さまもアンジェリカさまも大喜び。
「ナイスっ! 瞳子ちゃん!」
「サスガはデル・ジェス。いい音しますネ」
「フン、私の腕がよいのですわ。腕が」
 瞳子さまも、負けてない。
『グァルネリ・デル・ジェス』といえば、ストラディバリウスと並ぶヴァイオリンの銘器で、本物だったら億単位の価格だが。
 あとで楓さんに訊いてわかった事だが、瞳子さまは、あの日本有数の財団である小笠原グループの外戚にあたる家系の、純粋なお嬢さまらしい。
 お祖父さまは、病院を経営なさっているとか。
「と、瞳子さま? グァルネリって……それ」
「これ? 祖父から頂いた物ですけど。昔、祖父の病院で、治療費の代わりに、これを置いていった人がいて。家でヴァイオリンを弾くのは私だけなので、頂いたのですわ。売ればそれなりのお金になると言われたけれど、楽器は弾くものですわ」
 確かに、その通りなのだが……。
「私の望む音色が出ない物は、グァルネリだろうとストラディバリであろうと、私にはただのゴミなのです。歌手ではない祐巳さまの歌声だって、本物の歌手であるアンジェに負けず劣らず、みんなを感動させるでしょう? それと同じ事よ」
 瞳子さまの言葉に、この場の一年生全員が、力強く頷いた。


 薔薇の館。
 二階の会議室兼サロンには、残る山百合会幹部、白薔薇姉妹と黄薔薇さま、そして紅薔薇のつぼみがいた。
「由乃さん、本当に行かないの?」
「ええ、部活に顔を出したいから。そっちは瞳子に任せておけばいいし」
「じゃあ、行って来るわね」
 白薔薇姉妹は、連れ添って音楽室へと向かった。
 実は、間近に迫ったマリア祭の、余興の練習だという。
「さて……」
 聞こえよがしに溜め息を吐いて、黄薔薇さまは紅薔薇のつぼみ──可南子さまに言い放った。
「可南子ちゃん。貴女も音楽室に行きなさい」
「いえ、私は……」
「いいから。そんな辛気臭い顔でここにいられちゃ、堪らないわ」
 ムッとして、黄薔薇さまを睨む可南子さまだが、黄薔薇さまは全く動じない。
「あのねえ、それじゃあ卒業された祥子さまと同じよ? 祐巳さんと口ゲンカした日の、自分が悪くて悔やんでる祥子さまと」
 完全にカチンと来た可南子さま、思わず立ち上がった。
「私は、何も悪くはありませんわっ!」
「なら、いいじゃない。存分に『祐巳さん分』を補給してらっしゃい。あ、それとも、瞳子がいるからイヤなのかしら?」
「別に、瞳子さんがいようといまいと、私には関係ありません」
「じゃあ、存分に甘えてらっしゃい」
 もう一つ納得がいかないって顔をして、可南子さまは部屋を出た。
 階段の途中で、可南子さまは一人の生徒に出会った。
「ああ、貴女、一年桃組だったわよね?」
「ええ、そうですけど? それが何か?」
「……いえ、何でもないわ。由乃さま、上にいらっしゃるわよ」
 ぺこりと頭を下げ、その生徒は階上へ。可南子さまは階下へ。
 ビスケット扉を開けて、その生徒は、こう言った。
「あれ? 由姉ぇ、瞳子さまは?」
「瞳子がいないとダメなのか? ん? アンタは私じゃダメなのか?」
 いたずらっぽく微笑む黄薔薇さまに、その生徒も、にかっと笑う。
「ううん、全然ダメじゃない。由姉ぇ、何飲む?」
「紅茶。ダージリンのティーバッグあるから、それ淹れて」
 勝手知ったる……って感じで、壁際の流しに向かう、その生徒。
「さっき、可南子さまと逢ったけど、何処行ったの? まさかところ払い?」
「具合悪そうだったから、祐巳さんのところに行かせただけよ。人聞きの悪い」
 けらけら笑いながら、紅茶のカップを二つ手にして、その生徒も席に着く。
「祐巳さま? 何処に?」
「音楽室よ。マリア祭の余興の練習が……」
 黄薔薇さまの言葉を遮り、その生徒が口を開いた。
「マズイよ、それ。みやと可南子さま、鉢合わせしちゃう」
「みや? 可南子ちゃんが気にかけてる一年生? 確か……天野都。そういえば、アンタ、クラスメイトだったわね」
 コクリと頷く、その生徒。
「まさか、可南子ちゃんの落ち込んでる原因も……それなの?」
「多分……」
 黄薔薇さま、今までとは打って変わった真剣な表情で、その生徒と向き直った。
「じゃあ、アンタが知ってる事、全部話しなさい。歌乃」


à suivre...