Heaven's Gate #3

 


 清掃日誌を提出しに職員室へと出向くと、入れ違いにハルちゃんが出て来た。
「あ、ハルちゃん、ちょっと待ってて。一緒に帰ろう」
 そう言って、都は職員室へと足を踏み入れた。
 担任は不在で、机の上には数冊の清掃日誌が置いてあった。
 その上に重ねるように日誌を置き、職員室をあとにする。
 ハルちゃんは、廊下で都を待っていてくれた。
 廊下から昇降口、銀杏並木まで歩いて来る中、都はずっと思い悩んでいた。
「どうしたの? 浮かない顔して」
「ん、実はさぁ……」
 都は、カバンから一枚の紙を取り出し、ハルちゃんに手渡した。
「あれ? リリアンかわら版? いつのヤツ……って、え?」
 発刊日は、明日の日付。
 すでに試し刷りと称した『決定稿』が印刷されていたのだ。しかも写真つきで。
「紅薔薇のつぼみ……か。なるほど、みやっちが惚れるのもわかるね。この顔は」
 なんて、言ってる場合ではないのだ。
 その内容は、暗に都の事が書かれているのだから。
 対策の猶予といわれても、何をどうしていいのか、全くわからない。
「ねえ、ハルちゃん。私、どうしたらいいと思う?」
 こんな事を訊けるのは、歌乃ちゃんとハルちゃんだけ。
 歌乃ちゃんは、マリア様の前で、都たちを待っていてくれた。
 都は正門前からK駅行きのバスに、ハルちゃんはM駅行きのバスに乗る。
 そして歌乃ちゃんは徒歩通学。バス一区間では、乗るのがもったいないらしい。
 三人が校門をくぐろうとした時、突如ハルちゃんの足が止まった。
「っ……」
 胸を押さえて固まるハルちゃんに、歌乃ちゃんが青ざめた。
「ハル? どうした? 大丈夫?」
「あ、うん。ちょっとピリッと来ただけだから……」
 そう言ってハルちゃんはポケットをまさぐり、カバンの中までぶちまけて、必死になって何かを探している。
「虫の知らせってやつ? 脅かさないでよ……」
 目に涙を溜めていた歌乃ちゃんは、多分小さい頃の、身体が弱かったという幼馴染みの事を思い出したのだろう。
「ヤバっ。ゴメン、みやっち、歌乃っち。先帰ってて」
 スカートの裾をバッサバサとさせ、ハルちゃんは校内に戻って行った。
 どうやら忘れ物をしたみたいだ。それも、かなり大切なものを。
 都と歌乃ちゃんは顔を見合わせ、そして小さな溜め息を吐いた。
「……私たちも、戻る?」
「だね。急いで帰る必要もないし」
 くるりと踵を返し、二人はゆっくりと校内に戻った。


 ハルちゃんは、分かれ道という分かれ道で、何かを確かめるように立ち止まる。
 そして、講堂前まで来て、完全に足を止めた。
「あ……れ? どっちだ?」
 ポケットから手鏡を取り出して、それを覗き込む。
「……こっちか」
 鏡をポケットに入れ、講堂の裏手に回ると、そこはお弁当を食べた場所。
「落としたとしたら、この辺なんだけどなぁ……」
 必死に何かを探すハルちゃんの姿は、大切な何かを忘れてしまったという事を、悔やんでいるようにも見えた。
「ハ……」
 都が声をかけようとしたけれど、歌乃ちゃんに止められた。
 そして講堂の陰へと連れ込まれた。
「か、歌乃ちゃん?」
「しっ。……静かに」
 言われて黙って様子を見る──と、なるほど、その意味が都にもわかった。
「やっぱり、ここに来ると思っていたわ」
 白薔薇のつぼみだった。
「え?」
 背後から声をかけられたハルちゃんには、白薔薇のつぼみが桜の樹から湧き出たようにも見えただろう。
「あ、あの……?」
「駄目じゃない。こんなものを置き忘れて……」
 白薔薇のつぼみの手には、ハルちゃんのカッターもどきが乗っていた。
 それを見た途端、今度はハルちゃんが青ざめた。
「の、乃梨子さま、大丈夫ですか?」
「え?」
「お身体の加減、変わりないですか?」
「え、ええ。すこぶる健康……だけど?」
「よかった……」
 その場で、へなへなと座り込むハルちゃん。
「これ、私が最初に手にした時、丸一日寝込んだんです。だから……」
「わ、私は、何ともないけれど……」
 手を差し伸べ、ハルちゃんを立たせる白薔薇のつぼみ。
「綺麗な『独鈷杵(とこしょ)』ね。仏具に対して言う感想じゃないけれど、何か神々しいものを感じるわ」
 独鈷杵とは、ボールペンのキャップの両端に両刃の刀がついたような形の、長さ二〇センチ弱の仏具。これはもっと小さくて、十二センチくらいか。
 もっとも、その刃は飾りなので、ペーパーナイフの役にも立たないが。
 普段、お坊さまが持っているのは、これの刃をそれぞれ四本のかぎ爪で囲った、パッと見、眼鏡のような形に見える『五鈷杵(ごこしょ)』だという。
「ありがとうございます。これは『十握』なんです」
「とつか?」
 白薔薇のつぼみはきょとんとするが、それよりも話す事があったようだ。
「しかし、リリアンに仏具なんて。他の人に見られたら大変よ? 私だから、まだよかったものの……」
 そう言って白薔薇のつぼみは、ご自分の制服の袖を摘み上げた。
 ちらりと覗く白い手首には、水晶で出来た数珠が。
「略式念珠……あれ? 釈迦如来?」
「ああ、貴女『見える』人だったわね」
「気味が悪くはないですか? 私……」
「どうして? 仏教系の学校にいたのだから、それなりの修行したのでしょう?」
「何故、それを?」
「薔薇さまやつぼみは、新入生の情報、一通り目を通すわ。目に留まるかどうかは別だけど」
「なるほど……」
 特にハルちゃんは外部入学で学年総代。薔薇さま方が気にかけるのは当然か。
「この数珠ね、お姉さまから頂いたのだけど……」
 白薔薇のつぼみは、ちょっぴり遠い目をして言った。
「初めて見せてもらった時に、私が持っているのがバレて、カバンから抜き取られて、大変な目に遭ったのよ」
「大変な目?」
「ええ。折りしもマリア祭の日にお聖堂で『これは誰のものだ?』って、晒し者にされて。まるで宗教裁判だったわ……」
「うわぁ……」
 声を失うハルちゃん。
「もっとも、それは『お寺の娘』である事が言えなかったお姉さまに対するお芝居だったんだけどね。先代薔薇さま方の……」
「過激だったんですね。で、当代の薔薇さま方は?」
「由乃さま──黄薔薇さまは、一旦火が点いたらイケイケで止めるのに一苦労するけれど、祐巳さま──紅薔薇さまは、過激な事がお嫌いだから……」
 確かにお顔の表情といい、物腰といい、お優しくていらっしゃる。
「じゃあ……?」
「でも祐巳さまは、何をしでかすか誰にも予測がつかないから。可南子さんでさえ散々振り回されているし」
 苦笑する、白薔薇のつぼみ。
「何があるかわからないから、気をつけなさいね。特に、近しい友人には」
 白薔薇のつぼみが独鈷杵をハルちゃんに手渡すが、ハルちゃんは浮かない顔。
「なるほど。『氣』が抜けてる……」


「なるほど、白薔薇のつぼみはハルさんに目をつけたか……」
「え?」
 思わず、声をした方を見ると、都たちの後ろには夏目史香さんと地野京華さん、一年桃組・報道タッグが、二人揃って立っていた。
「史香さん? 京華さんも……どうして?」
「そりゃあ、ハルさんが大慌てで走っていく。その後を都さんと歌乃さんが歩いてついて行く。何かあったと思わない方がおかしいんじゃなくて?」
「確かに……」
 納得してる場合じゃないよ、歌乃ちゃん。
 かといって、どうする事も出来ない都ではあるが。
「密会?」
「じゃなくて、ハルちゃんが忘れ物をして、それを白薔薇のつぼみが預かっていたみたいだよ。ここで逢ったのは、ここしか接点がないから……かな?」
「その話、もっと詳しく訊きたいわ」
「お昼ご飯、ここで食べてたら、白薔薇姉妹が来たって、ただそれだけ。あ?」
 ハルちゃんに動きが見られたため、都は口を閉じた。
 他の連中も、何が起こるのか、食い入るように見つめていた。


「これ、いつもの『氣』が感じられません」
「私が触れたからかしら?」
「いえ、その前からでしょう。私、落としちゃったから……」
 ハルちゃんは、右手の人差し指と中指で独鈷杵を挟むようにして持つと、パンと大きな柏手を一つ。
 そして大きく息を吸って、普段のハルちゃんとは全く違う声を出した。
『ひふみよいむなやことふるべゆらゆらふるべ……』
 何やら呪文を唱えた後、別の呪文にあわせて、指を組んだり手を合わせる。
『臨兵闘者皆陣列前行……』
 陰陽師の映画や小説などで流行った呪文とは、微妙に違う。
「え?」
 呪文を唱え終わったハルちゃんは、まるで貧血を起こしたかのように、ふらっと倒れそうになった。
 慌ててハルちゃんを支える、白薔薇のつぼみ。
「あ、すみません。ちょっと『氣』を使い過ぎたみたいで……」
 自力で立つも、何処かフラフラとしているハルちゃん。
「ハルちゃんっ!」
 思わず都は飛び出していた。
「あ、みやっち。どうした?」
「どうしたじゃないよ。ハルちゃん、大丈夫なの?」
 心なしか、顔色が悪い。
「つ~か、覗いてたな? こら」
「あうっ」
 おでこを突かれて、仰け反る都。
 そんな様子を見て、クスクスと笑いながら歌乃ちゃんたちも出てきた。
「ごきげんよう、白薔薇のつぼみ」
「ああ、歌乃さんね。ちょうどよかったわ」
 まるで旧知のような挨拶を交わす、白薔薇のつぼみ。何故?
「私、このまま春海さんを家まで送るから。お姉さま方によしなに伝えて頂戴」
「いえ、私は大丈夫ですから……お?」
 支えがないと歩けないハルちゃんに、歌乃ちゃんも心配そうな顔を向けた。
「わかりました。そうお伝え致します」
「ありがとう。貴女なら、由乃さまも癇癪を起こす事はないから、助かるわ」
 え? 歌乃ちゃんが──黄薔薇さまが癇癪?
「じゃあ、よろしくね。ごきげんよう」
 ハルちゃんに肩を貸す……というより、担ぐようにして歩く白薔薇のつぼみ。
 ハルちゃんは断るも、完全に押し切られてしまっていた。
 先輩の、というより『つぼみ』の威厳か。
「さて……」
 溜め息一つ吐いて、歌乃ちゃんが言った。
「みや、ハルについて行って」
「え?」
「いくら乃梨子さまでも、一人でハルを支えるのはキツイでしょ?」
「あ、うん。じゃあね、歌乃ちゃん。ごきげんよう」
 せめてカバンを持つくらいなら、都にも出来るから。
 都は慌てて二人を追いかけた。


 M駅方面に、バスで三区間。
 小高い丘というか、森というか。
 まだこんなに緑が残っていたんだなと思わせる、都会のオアシス。
 そんなところに、連れて来られた都たち。
「ここは……?」
 ハルちゃんの家に向かっているはずだが、ここは何をどう見ても、神社の境内にしか見えない。
 現に、玉砂利の庭を、白い着物に紺袴の巫女さんが、竹箒で掃いているし。
 ただ、その巫女さん、どう見ても中学生にしか見えないのだが──労働基準法とか大丈夫なのかな?
「サワっち、お兄ぃは?」
「ああ、ハルか。コージンなら、後ろに……」
「『あらひと』だって、何度言やぁわかるんだ? サワ公」
「いいじゃないか。同じ字を書くのだし」
「よくねぇよ、バカヤロ」
 口、悪いなぁと思って振り向くと、何故かそこには平安貴族のコスプレをした、かなりのイケメンが立っていた。
 神主さまの正装だから、平安貴族の格好でいいんだけれど……。
「お兄ぃ……お客さんの前だからさぁ」
「お客? おお、ハル、お前にしちゃかなりの上玉捕まえてきたなぁ、おい」
 からからと笑う神主さま。
 それにも動じず(多少は退きつつ)、白薔薇のつぼみはしっかりと挨拶をした。
「私、リリアン女学園でお世話になっております、二条乃梨子と申します」
「あ、あの、天野都ですっ」
 慌てて挨拶するけれど、どうにも決まらない。
 さすがは『つぼみ』か。とてもじゃないが、真似出来ない。
「ようこそ『真上(まがみ)神社』へいらっしゃった。私は当社・宮司の隠上荒人(いぬがみあらひと)と申す者」
 杓を構えて頭を下げるさまは、まさしく神々しい神主さまの風格。
 さっきのおちゃらけは、微塵もなかった。
「え? 真上に隠上に荒人──荒神(こうじん)? ええっ?」
 いきなり、白薔薇のつぼみが叫んだ。
「真神(まがみ)って、大口真神(おおぐちまがみ)ですよね?」
「そう、うちの御祭神。よく知ってるね?」
「じゃあ、荒神というのは、その……」
「いや、俺は『人』だよ。ひ・と。神じゃない」
 急に、気さくなその辺のお兄ちゃんと化す神主さま。
「それにしても……」
 考え込む白薔薇のつぼみだけど、都は話について行けない。
「えっと、ロサ……」
「校外だから、名前で呼んで頂戴」
「あ、はい、乃梨子さま。その、大口なんとかって、何です?」
「えっと……私なんかが説明してもよろしいのでしょうか?」
 確かに、目の前に神主さまがいるところで素人が解説だなんて、おこがましい。
「ああ。お姉さまの教えの方が、素直に耳に入るだろ?」
「お、お姉さま?」
 神主さまの言葉に、思わず都は叫んでしまった。
「あれ? リリアンじゃ上級生の事を『お姉さま』って呼ぶんだろ?」
「まあ、一般に上級生全般を指して『お姉さま方』とは呼びますが、個人に対して『お姉さま』と呼べるのは、ロザリオの授受により『姉妹の契り』を結んだ、ただ一人だけなのです」
 と、一人慌てる都の代わりに、乃梨子さまが受け答えしてくれた。
「なるほど、勉強になったよ。小寓寺の住職、肝心な事を教えねぇから……」
「え?」
「あそこの娘さん、リリアンだろ? うちのも入るからって訊きに行ったんだけどさぁ、よくわかんねぇから当たって砕けろ、だとさ」
「確かに、あのご住職なら、そう言いそう……」
「そういえば、志摩ちゃんの『妹』が乃梨子って……もしかして、君?」
 コクリと頷く乃梨子さま。
「君が志村さんとこのアイドル『ノリちゃん』か。なら、こんなの好きだろ?」
 神主さま、何故か仏具であるはずの独鈷杵を、袂から取り出した。
「うわっ、これは……。春海さんに見せて頂いた物よりも、遥かに神々しい……」
 うっとりする乃梨子さまに、神主さまがボソッと呟く。
「何? ハルのヤツ『十握』見せたのか? しょうもねぇヤツだな」
「うっさいなぁ、お兄ぃ。これ以上乃梨子さまに色目使うと、斬るぞ?」
「うるせぇ、バカヤロ。『十握』で『草薙』が斬れるか。顔洗って出直して来い」
 そう言って神主さまは、手に持った杓でハルちゃんの頭をペシッと叩いた。
「斬れるっ!『ロサ・ギガ』の美しき魂が、邪悪な心を打ち砕くっ!」
「そりゃ『プリキュア』じゃねぇか、バカヤロ。しかも中途半端な略し方すんじゃねぇ。お姉さまに失礼だろうが」
 神主さま、今度はハルちゃんの両肩をペシペシと叩く。
 しかし、何故神主さまが、子供向けアニメをご存知なの?
「朝のお勤め終えてさ、茶でも飲もうと社務所戻ると、こいつが見てんだよ。寝ぼけた顔して、パジャマ着たままで……」
 クスッと笑う乃梨子さまと、プーッとふくれっ面のハルちゃん。
「いいじゃん。だって、好きなんだもん」
「まあ、いいから、とっとと着替えて来い。立ち話もなんだから、お姉さま方には社務所でお茶しててもらうから」
「あ、うん。そうだね……」
 ハルちゃん、一人で歩けるかな? 大丈夫かな?
「あ、ハル。手ぇ挙げろ」
 言われたままにハルちゃんがバンザイすると、神主さまがハルちゃんの左右の脇腹──骨盤の上辺りを、一回ずつ杓で叩いた。
「これで、ラクになったろ?」
 え? ひょっとして『祓っていた』の?
「ん、ありがと、お兄ぃ。みやっちも乃梨子さまも、ありがとう」
 都からカバンを受け取ると、今まで一人で歩く事が出来なかったハルちゃんは、社務所まで走って行った……。
「あのバカ、桜に何かしなかった?」
「ええ。何か悪いものが、と言って『九字切り』で祓っていましたが」
「やっぱり。あのバカ、桜に好かれたな」
 そう言って、神主さまは境内の桜の樹に向けて、杓を一振り。
 すると、完全に葉桜だった桜の樹から、ほんの一片の花びらが舞ったのだった。


 社務所に招かれて、居間というか食卓というか、そんなところに通された。
 神主さまとハルちゃんは、着替えのために奥に引っ込み、もう一人の巫女さんはお茶の仕度。ここには乃梨子さまと都だけが残された。
「中は、案外普通なんですね……」
 自分の家のダイニングと、そんなに変わらない。
 おみくじやお守りなどの売り場が玄関の横にある事以外は、普通の日本家屋だ。
 思わず都が呟くと、乃梨子さまはクスクスと笑った。
「なるほど、可南子さんが貴女に惹かれる理由、わかるような気がするわ」
 しばらく、その言葉の意味が飲み込めなかった都だが、じわじわと染み込むように理解すると、途端に顔が赤くなったり青くなったり、忙しくなった。
「えっと、乃梨子さま? それは、どういう意味で……?」
「さて、先ほどの話の続きをしましょうか」
 さらりとかわされた。自分で訊きに行けという事か?
 乃梨子さまは、幼稚舎からリリアン生である都にもわかりやすいように日本神話を説明してくれた。
 大口真神とは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、道に迷ったところを助けた犬というか狼というか、それが神様になった、いわゆる犬神さま。
 十握剣(とつかのつるぎ)とは、須佐之男命(すさのうのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する時に使った剣。
 そのとき、尻尾を切ろうとしても、どうしても切れなかったので、中を調べてみると一本の剣が入っていた。それが『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』という。
 草薙剣は、三種の神器の一つとされ、現在の天皇家に受け継がれているもので、名古屋の熱田神宮に奉納されている──と伝えられている。
「宮司さまの剣が『草薙』なら、春海さんが顔を洗おうが何をしようが『十握』で切れる訳がないのよ……」
「えっと、乃梨子さま。宮司さまと神主さまって、どう違うんです?」
「そうね。学校に喩えるなら、神主さまは先生。宮司さまは校長とか理事長とか、神社の経営も司る総責任者ってところかしら」
 明治神宮など、大きな神社には確かに大勢の神主さまがいるが、宮司さまはただ一人だけ。なるほど、そう考えるとわかりやすい。
「そして『荒神』とは『荒ぶる神』つまり須佐之男命の事なの。仏教や神道では、名前そのものが重要な意味を持つから……」
「『名は体を現す』ってヤツですか?」
「そう。勘が鋭くて、助かるわ」
 そんな事を言われたのは初めてだが、つまり乃梨子さまはこう言いたいのだ。

 ──ここの宮司さまは、大口真神を従えた、須佐之男命である──と。

「やれやれ。お姉さま、本当にリリアン生かい?」
 一変、ラフな藍染の作務衣(さむえ)姿の宮司さまが現れた。
「でも『隠神』は『狸』だから、人を化かすよ。それに『隠上荒人』の名は世襲制だから。俺で九〇と八代目だよ」
 宮司さまは、テーブルの脇にある、畳半畳ほどの腰掛に座った。
 しかし、腰掛の上に胡坐をかく時『どっこいしょ』はないだろう。
「あれ? まだお茶出てないの? おい、サワラ、何してんだよ」
 スッと入口のふすまが開き、白衣緋袴のやたら神々しい巫女さんが現れた。
「どうぞ、粗茶ですが」
「あ、ありがとうございます」
 思わず畏まる都に、巫女さんはクスクスと笑った。
「やだな、みやっち。私だよ?」
「え? ハルちゃん?」
 確かに、巫女さんには似つかわしくない、色素の抜けた茶髪のヒヨコ頭。
 でも、それを補って余りある神々しさ。
 普段からハルちゃんがピッと凛々しい訳、納得した都だった。
「貴女『祓い巫女』だったのね?」
「ホント、詳しいよ。お姉さま……」
 乃梨子さまの言葉に、宮司さまが苦笑する。
「お兄ぃ、お姉さま連呼すな」
「お? ホントはお前がそう呼びたいんじゃねぇのか?」
 宮司さまにそう言われて、ハルちゃんは顔が真っ赤になった。
「まあ、ここまでお前の正体知られて、平然としてる上級生だ。惹かれるのも当然といえば当然か。しかも『千早(ちはや)』まで着て、めかし込みやがって」
 宮司さま、テーブルの下から一升瓶を取り出すと、手酌でぐいぐいやり出した。
 ちなみに『千早』とは、巫女装束の上に羽織る羽衣のようなもので、これを着て初めて『正装』となるらしい。
「ところで、サワラのヤツ、どうした?」
「ミルクが足りないって、もう大騒ぎ。買いに出かけたわ」
「しょうがねぇヤツだなぁ。これで、もうヤツの出番ないぞ?」
 何の事かわからないが、もう一人の巫女さん(?)はサワラ・サロウという名前で、ハルちゃんたちと一緒にこの神社に住んでいるという。
 実際には巫女さんではなく『出仕』というお手伝いさんらしい。
「ねえ、お兄ぃ。十握が変なんだよ……」
「変なのはお前だ。祓った桜に好かれて、思いっきり『氣』を取り込んだから、桜に『酔った』んだよ。この酔っ払いが」
「え? そうなの?」
「お前『沖都鏡(おきつかがみ)』持ってるだろうが。それで自分の顔見てみろ」
 十種の神宝(とくさのかんだから)の一つで、真実の姿を映し出すという。
 ハルちゃんは素直に袂から鏡──というより金属板──を取り出し、覗き込む。
「わ、うわ……」
 途端に照れまくるハルちゃん。
 何が映ったかは教えてくれなかったけれど、大体の想像はつくから。
 都がそんな顔になった時、大抵ある人の事を想っている時だから。
「私が心惹かれた理由、やっとわかったわ……」
 ボソッと呟く声がした。
 ハルちゃんの耳には届いてなかったが、都にははっきりと聞こえた。
 そして、満足そうな顔をしてお酒をあおる宮司さまが、とても印象的だった。


「ふーん、隠上のヤツがねぇ……」
 都は、帰宅が遅れてお店が手伝えなかった事を、お義兄さんに詫びた。
 もっとも、お義兄さんは、そんな事は全然気にしていなくて、都が友達と仲よくしている事を喜んでくれていた。
「ええ。お義兄さんによろしく、と。今度一緒に飲みましょう、と」
 宮司さまに言付かった事を都が伝えると、お義兄さんは鼻で笑った。
「どうせヤツの事だ。『輔は退く事を知らねぇから、大変だろうけど面倒見てやってくれ』とか何とか言ったんだろ?」
 一言一句、全くもって、その通りです。お義兄さま。
 いくら高校時代の同級生とはいえ、そこまで性格が把握出来るものなの?
「あの野郎、神主のクセに『妥協』って言葉を知らねぇからなぁ……」
 なるほど、どっちもどっち。五十歩百歩ってヤツね。
 お義兄さん、ポケットからケータイを取り出し、電話をかけた。
「あ、俺だ、俺。……はぁ? 詐欺じゃねぇっつーの、バカヤロ」
 どうやら電話のお相手は、宮司さまのようだ。
「おう、義妹(いもうと)が世話になったな。ああ……はぁ? お前が山を降りて来い。酒持ってな。ローゼスのプラチナだぞ。バカヤロ、ポン酒なんか飲めるか」
 いきなり、ケンカ腰。大丈夫かなぁ……?
 宮司さまはハルちゃんの『叔父さま』だから、保護者同士、ケンカして欲しくはないけれど……。
 ちなみに『ローゼス』とは、バーボン・ウィスキーの『フォア・ローゼス』の事で『ポン酒』は『日本酒』。大人の言葉も、結構難しい。
 心配そうに見つめる都の頭を、お義兄さんはポフッと撫でた。
「おう。あと、メープルパーラーのフルーツタルト、忘れずに買って来いよ。バカヤロ、義妹の好物なんだよ。じゃあな」
 電話を切ると、お義兄さんがお姉ちゃんを呼んだ。
「なあ、沙耶子。そういえば『雪中梅』の大吟醸、あったよなぁ?」
「お彼岸に、小寓寺に持って行ったけど?」
「え? そうだったっけ……そういえば、あそこの住職も、あれが好きだったな」
 お義兄さん、今度は酒屋さんに電話をかける。
「あ、毎度。喫茶店の『task』ですけど、今度『雪中梅』の大吟醸を……」
 ……男の人って、よくわからない。
 ふと見ると、お姉ちゃんが手招きをして、都を呼んだ。
 そして、包み込むように都の肩を抱き寄せた。
「あのね、都。昨日はボコボコに殴り合っていても、今日は肩を組んで笑っていられる──。それが『男の友情』ってものなのよ」
「え? 何それ? そんな事、現実にあるの?」
 お姉ちゃんは「さあ?」と笑って両手を挙げた。
「都は女の子だから、わからなくてもいいわよ。だから今は、清く正しい女の子の友情をしっかりと育みなさいね」
「女の子の友情かぁ……」
 それも、正直よくわからない。
 ハルちゃんと歌乃ちゃんと、そしてクラスメイトと。
 取り敢えずは、仲良くやっていると思う。
 でも、明日、みんながリリアンかわら版を見たら、都に対してどう思うのか?
 考えると、怖くなる。
「ねえ、お姉ちゃん……」
「ん? 何?」
「……ううん、何でもない」
 お姉ちゃんは自力で解決したんだから、やっぱり訊けない。
 人間関係をより深めて行くための攻略本なんて、存在しないのだから。
「都? 何を悩んでいるのかはわからないけれど、いつでも相談しなさいよ。貴女は独りじゃないんだからね?」
 不安が顔に出ていたようで、お姉ちゃんが心配そうな顔をした。
「うん、ありがとう。私一人じゃどうにもならなくなったら、助けてね」
 そう、よく考えたら、まだ何も始まってはいないのだ。
 それに、紅薔薇のつぼみが、何をお思いになり、何をお考えなのかは、都の与り知らないところであり、想像すら出来ない事なのだから。
 だったら、都の行動が、紅薔薇のつぼみの迷惑にならなければ、それでいい。
 そう思うと、かなり気がラクになった。
「まあ、あの紅薔薇のつぼみが、こんな記事を許すとも思えないしね。うん」
 自室に戻り、着替えて明日の準備を終えると、都は夕食の準備をするために台所へと向かった。


à suivre...