「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
マリア様のお庭で……こんな挨拶をするのは、多分彼女だけ。
「おはよ、みやっち」
マリア様にお祈りをしている天野都に、後ろからポンと肩を叩いて声をかける。
「……『ごきげんよう』だよ、ハルちゃん」
クラスメイトの鯨岡春海さん。
学年きっての才女は、何を考えているのか、今ひとつわからない。
「うん。みやっちの顔をみれば、私は機嫌がよくなる。みやっちの機嫌は、見ればわかるでしょ? 私たちは常に『ごきげんよう』なワケよ」
「いや、あのね、ハルちゃん……」
そういう意味じゃなくて──。
彼女は都と歌乃ちゃん──前橋歌乃以外の人間には、ちゃんと『ごきげんよう』と挨拶をするのだから、入学後一ヶ月経った今、リリアンの習慣に慣れていない訳ではない。
「上級生のお姉さま方に、チェックされるよ?」
都は小声で嗜めた。
外部入学で学年総代、しかも美人さんのハルちゃんは、ただでさえ目立つから。
現に、隣でマリア様にお祈りしている上級生のお姉さまは、都たちの会話が耳に入っているのか、クスクスと肩を震わせて笑っているのだから。
でも、それがお一人だけで、よかったな。
普段なら、混み合う朝のマリア様の前で、都とハルちゃんと、上級生がお一人。
閑散としている訳ではなく、大勢の生徒たちが少し離れた場所で遠巻きにその上級生を取り囲む位置にいて──何か遠慮している状態。
「え?」
不躾にも、都はその上級生の顔を覗きこみ、そして言葉を失った。
「仲良き事は、美しきかな」
おもろい夫婦?
「ごきげんよう」
そう言い残し、凛とした後ろ姿で立ち去る……紅薔薇さま。
「ロ、紅薔薇さま?!」
「えっ?」
ハルちゃんは天使さまのような髪をポリポリと掻いた。
「……まあ、怒られなくて、よかったな」
「そんな問題じゃなくて……げっ!」
あっという間に、生徒たちに囲まれた。
「ねえ、貴女方。紅薔薇さまとは、何をお話に?」
「お親しい関係でいらっしゃるの?」
等々、矢継ぎ早に質問を浴びせられる。
反論の間を与えられない連続攻撃。ホントに答が欲しいのか?
「ねえ、何とか仰いな!」
ドンと突き飛ばされた都。
「何すんのさ!」
あ……マズイ。ハルちゃん、キレそう。
「ちょっと、貴女たちっ!」
『え?』
その声は、囲みの外から聞こえた。
突如割れる人垣。
もっとも、同年代女子の平均身長をはるかに超える長身で、この一部始終を見ていたかもしれない……と、誰もが思っていたはず。
ただ、その方は、人垣が割れて出来た道を通る事をしなかったので、周りの生徒たちが不思議がっていたけれど。
「何があったのかは知らないけれど、お祈りが済んだ人から動きなさい」
「あ、すみません、紅薔薇のつぼみ」
誰もが声を失う中、ハルちゃんがそう叫び、都の腕を引っ張った。
「は、ハルちゃん?」
「いいから、みやっち。この場は逃げよう」
確かに、この場を離れる口実は出来たけれど、紅薔薇のつぼみへの印象は最悪。
お近づきはおろか、お声がけすらとんでもない状況に陥ってしまった。
校舎へと向かう道すがら、どんどん都は気落ちしてしまった。
「う……紅薔薇のつぼみ、怒ってるよね? きっと」
「そんな事はないわよ」
『え?』
振り向くと、そこには紅薔薇のつぼみがいた。
い、いつの間に? まだ大勢の生徒が、マリア様にお祈りしている状態なのに。
「話は聞いたわ。ごめんなさいね、お姉さまが迷惑をかけて」
「え? あ? お?」
顔を真っ赤にして、口をパクパクさせる都。まるで金魚だ。
でも、憧れの人を目前にして、他に何が出来るだろう?
「貴女、口はないの? それとも、言葉を忘れたの?」
「あ、いえ、すみませんでした」
都は深々と頭を下げた。
「……謝っているのは、私の方なんだけど」
長い髪をさらっと掻き上げる、紅薔薇のつぼみ。
「まあ、いいわ。はい」
「はいって……その……?」
紅薔薇のつぼみは、ご自分のカバンを都に差し出した。
それを両手で受け取ると、紅薔薇のつぼみは、空いたその手で都の【タイ】に、手を伸ばす。
これって、伝説の『紅薔薇タイ直し』ってヤツ?
「みやっち、顔、真っ赤……」
ハルちゃんのツッコミも、都の耳には入らない。
夏でもないのに、都の脳みそは熱射病で沸騰寸前なのだから。
キュッと音を立て、タイを結び直した紅薔薇のつぼみ、カバンを受け取って一言こう言った。
「身だしなみは、きちっとね。見ているのは、マリア様だけじゃなくってよ」
「え?」
視線を都の肩越しから先へと延ばし、紅薔薇のつぼみが叫んだ。
「お姉さま。いらっしゃるんでしょう?」
「……バレたか」
頭をポリポリと掻きながら、物陰から紅薔薇さまが出て来た。
一体、何処に?
「大体この騒ぎ、お姉さまが元凶ではないですか……へ?」
紅薔薇さまは、ご自分の後頭部を指差していた。
後ろに立たれていたため、都には見えなかったのだが。
「え? ああ……」
足元にカバンを置くと、紅薔薇のつぼみは都を抱きしめた──。
──いや、正確には、都のポニーテールのリボンを直してくれただけなのだが。
それでも、顔や身体の接近度合いには大差がなくて。
(うわ……熱、出そう……)
「ん、じゃあね。ごきげんよう」
茹でタコ状態の都に軽く微笑み、紅薔薇のつぼみは紅薔薇さまと一緒に校舎へと向かわれたのだった。
「可南子、姉妹みたいで、よかったわよ」
「そうですか? まあ、確かに他人のタイを直すのは、クセになりそうですが」
「でも、可南子の妹は、あんな子がいいな。私より可南子の方が好きって、目に見えてわかる子が」
「お姉さま、ご冗談を……」
「いや、マジもマジ。そろそろ考えた方がいいんじゃない?」
「まだ、マリア祭前ですよ? お姉さま……」
そんな紅薔薇姉妹の会話があった事など、全く気づかずに。
後にハルちゃんが教えてくれたけれど、とても現実とは思えずに。
都は、ただ胸に込み上げて来るものを、止められなかった。
「紅薔薇のつぼみが、笑ってくれたよ……」
「みやっち……」
怖い人だとか冷たい人だとか、そんな噂が先行する紅薔薇のつぼみだけど、その笑顔はとても優しくて、とても温かかった。
でも、それと同じくらい、都に貸してくれたハルちゃんの胸が温かかった。
「ごきげんよう」
「ごきげん……え?」
翌朝、マリア様の前でのハルちゃんの挨拶が変わった。
「ん? なんか変?」
いや、変じゃない。これが普通なのだが……。
「どうしたの? ハルちゃん。今まで、何言っても『おはよう』だったのに」
「ん。『親しき仲にも礼儀あり』かな。昨日……え?」
ハルちゃんが固まった。振り返った都も、やっぱり固まった。
「なんだ、普通じゃん。期待したのに……」
そこには、面白くないって顔をした、三つ編みを解いたようなソバージュ・ヘアの美女が立っていた。
しかも、巻き毛の西洋人形風美女に、おかっぱ黒髪の日本人形風美少女、それにの赤毛縦ロールのアンティーク・ドール風美少女を従えて。
「う~ん。『一年総代・鯨岡春海は面白い』ってタレコミあったんだけどね。実際は案外普通だったなぁ」
三つ編みソバージュの黄薔薇さまが……タレコミ?
後ろでは「由乃さん、それはあまりに失礼よ」と、言葉通りの感情はこもっていない、ふわふわな巻き毛の白薔薇さまが、クスクス笑いながらツッコミ入れてる。
「お言葉ですが、黄薔薇さま」
悪びれもせず、恐れもせず、ハルちゃんは黄薔薇さまに向かって言い放った。
「そうそう異常な生徒なら、リリアンに入学出来ないと思いますが?」
「……前言撤回。やっぱ、面白いわ。このコ」
黄薔薇さまは、ハルちゃんを上から下まで舐めるように見回し、満足げに言う。
「去年の乃梨子ちゃんみたいだわ」
「それは、外部入学だからって事ですか? 由乃さま」
「上級生だろうと薔薇さまだろうと、平気で物を言うところ──かな?」
ニヤリと笑う黄薔薇さまに、ぐうの音も出ない白薔薇のつぼみ。
そして「まあまあ」と、つぼみを宥める白薔薇さま。
こうしてみていると、薔薇さま方とはいえ、その辺の普通の姉妹に──山百合会幹部とはいえ、普通の生徒と何ら変わらなく見える。
それがわかっているから、ハルちゃんは物怖じしないのだろうか?
「で、黄薔薇さま? そのタレコミ元は、誰です?」
「貴重なニュースソース、そう簡単にバラす訳ないじゃない」
今度は、黄薔薇さま、けらけら笑ってる。
「ひょっとして、紅薔薇さま……とか?」
「ん? 呼んだ?」
振り向くと、今度は紅薔薇姉妹が。
「何だか楽しそうね? 私も混ぜてよ」
無垢な笑顔で微笑む紅薔薇さまに、さすがの黄薔薇さまも声を失う。
そして、天然ともいえる紅薔薇さまの発言に、今度はハルちゃんはおろか、この場の全員が声を失った。
「ねえ、由乃さん、新しいお友達? 私にも紹介してよ」
「ゆ、祐巳さん? 昨日『面白い一年生』に逢ったって、言わなかった?」
「うん、彼女ね」
紅薔薇さまの視線の先には、一歩控えて立っていた都がいた。
でも、当の都はといえば、紅薔薇のつぼみに釘付けで……。
「最近、よく逢うわね」
なんて事を、表情を出さない端正なお顔で仰るものだから、都は恥も外聞も忘れて、ポカンと口を開けてしまう。
「口っ」
なんて注意されようものなら、それだけで有頂天になってしまう。
これじゃあ、単なる変態さんだな……。
で、実際注意され、思わず両手を口に当てている都を見て、周りでボソボソと。
それでも、紅薔薇のつぼみは全く意に介さず、都のタイに手を伸ばす。
整えついでに、都の髪のリボンまでをも──。
そして、一通り整え終わると、一瞬だけ満足そうな顔をして微笑む。
「じゃあ、ごきげんよう」
そう言い残し、薔薇さまも置き去りにして、その場を立ち去る紅薔薇のつぼみ。
「……確かに、面白いわね」
白薔薇さまの呟きに、ハッと我に返る全員。
「鯨岡さん、いつでも薔薇の館へいらっしゃいな。お茶くらいならご馳走するわ」
ハルちゃんにそう言う黄薔薇さまは、ニヤリと笑って続けた。
「二杯目以降は、セルフだけどね」
その日は一日中、一年桃組は蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。
「ねえ、都さん。お訊きしたい事があるんですの」
何故か、質問は都に集中する。
「私も、お訊きしたいわ。都さんって、薔薇さま方と、どのようなご関係?」
単刀直入に訊いてくれるのは助かるが、かといって明確な答が出る訳ではない。
むしろ答は明確なのだが、誰もそれを信じてくれないのだ。
「いや、だから、私は薔薇さまとは無関係ですってば」
中には、幼稚舎からずっとリリアンで、都と同じクラスにもなった事がある人までが、質問の輪に加わっている。
「でも、今朝などは、黄薔薇さまと楽しそうにお話なさってて」
楽しそうなのは黄薔薇さまだけで。しかも会話の相手はハルちゃんで。
都が親しくしたいのは、紅薔薇のつぼみで。
しかも、今日なんてタイを直して頂いたのに、誰もその話には触れないで。
もっとも、お礼はおろか挨拶すら満足に出来てないのだから、泣きたくもなる。
「あ、あの、私たち、都さんを責めるつもりは、全くありませんのよ?」
「薔薇さま方と話をしたのは、ハルちゃんだよ? 私じゃないよ?」
半泣きで答える都を、さすがに宥めようとするクラスメイトたち。
「ええ。でも、春海さんは入学式でも新入生代表挨拶なさった、学年総代でいらっしゃるから、近寄りがたい雰囲気というか……」
「そう、薔薇さま方に似た雰囲気をお持ちで」
要は、直接ハルちゃんに訊けないから、常に近くにいる都に白羽の矢が立ったという訳だ。
「で、私が、何?『近寄りがたい』だって?」
そのまま放っておけば『遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ!』などと言いかねない勢いで、仁王立ちするハルちゃんが。
「私に訊きたい事があるなら、訊けばいいじゃん。みやっち苛めてる間に、全部答えてあげるよ?」
「私たちは、別に苛めてなど……」
「じゃあ、何で、泣かしてんのさ? みやっちがアンタたちに何か迷惑かけた?」
「ハルっ!」
横槍は、全く別の方面から入って来た。
それが何処から来たのか、一瞬で理解したハルちゃんは、テンションを下げた。
「……ゴメン、言い過ぎたね。でも、クラスメイトなんだから『近寄りがたい』はナシにしてよ」
「いえ、私たちこそ、ごめんなさい……」
「確かに今朝、黄薔薇さまと話をしたよ。『鯨岡春海は変なヤツだ』ってタレコミあったらしくて、それを確認に来たんだよ。大変だよね、薔薇さま方も」
「そ、それで?」
「あとは、薔薇の館に来たら、お茶くらいは飲ませてやるって」
「薔薇さま方に、お茶のお誘いを?」
「でも、自分で淹れろって。ま、もっともだよね。私は一年生なんだから、仮にも上級生にお茶淹れさせる訳には行かないし」
「で、春海さんは、どの薔薇さまがお好みなの?」
「私は、まだよくわからないけれど、みやっちは紅薔薇のつぼみが好きみたいよ」
「ロ、紅薔薇のつぼみ……そうなの。都さんは……ふーん」
ハルちゃんの言葉に、波が引いたようにみんながそれぞれの席に戻って行った。
紅薔薇のつぼみの名前を出した途端、いきなり問題外ってのは、失礼じゃない?
もっとも、あのお方の眼中には紅薔薇さま以外にないって事は、リリアン中の常識なのだから、仕方がないけれど。
「さて、みやっち。私たちも昼メシにしようか」
昼メシって……仮にもリリアンの生徒が。
「メシ言うな!」
「ん、それだけ元気あったら、大丈夫だね。行こう」
こんなハルちゃんと話していると、泣いているのが馬鹿らしくなる。
薔薇さま方と同じオーラを持つって言われるハルちゃんと、こうして平気に話す事が出来るのだから。
今度紅薔薇のつぼみにお逢いしたら、挨拶くらいはきちんとしよう。
もう少し頑張って、タイを直して頂いたお礼も言おう。
「歌乃ちゃん」
都が呼びかけると、それまで『我関せず』だった歌乃ちゃんも席を立つ。
キレかかったハルちゃんを諌めてくれたクセに、クールなんだから。
「ねえ、ハルちゃん、何処行くの?」
「薔薇の館に茶を飲みに」
『え~っ!』
ハルちゃんの爆弾発言に、クラス中(都・歌乃を含む)の人間が声を上げた。
「都さん」
廊下に出た瞬間、声をかけられた。
振り向くと、クラス──いや、学年で一番のお嬢さまが立っていた。
東明寺桜(とうみょうじさくら)さん。
旧華族の流れを汲む名家の生まれにして、学生の身でありながら、お茶とお華の師範免状を持つ、純粋培養のお嬢さま。
「私たちも、ご一緒してよろしいかしら?」
『たち』という事は、単独ではない。必ず『連れ』がいる。
いつも桜さんと一緒に行動する、佐原燕(さはらつばめ)さん。
バスケ部ルーキーで、ポジションはシューティング・ガード。
一年生でスタメン、レギュラーを獲得したスポーツ万能少女。
桜さんも燕さんも、都とは幼稚舎からの付き合いで、同じクラスにもなった事も何度かある。
「悪いけど、薔薇の館へ行くっての、あれ、嘘だから」
ハルちゃんの言葉に、桜さんはクスクスと笑った。
「ええ。春海さんがそう仰る事で、他の方々を牽制なさったのでしょう?」
文句があるなら私に言えと、暗にハルちゃんはみんなに釘を刺したのだ。
「それよりも、私、歌乃さんとお近付きになりたいですわ」
「私、私。私は春海さんと仲良くなりたいっ!」
負けず嫌いの燕さんは、桜さんに対抗意識をメラメラ燃やして……って、それは毎度の事なんだけど。
「ん、じゃあ、私の事『ハル』って呼んでよ」
「わかった、ハルさん」
──まあ、この辺が、純粋リリアン生の限界なのかも知れない。
「で、ハルさん、何処行くの?」
「うん、お花見」
『お花見~?』
ゾロゾロと講堂の横まで歩いて来たけれど、こんなところに……それはあった。
講堂の裏は、銀杏林。
その中に、何故か一本だけ【桜】の樹があった。
校内の、他の桜は全て花が散り、葉桜全盛なのにも関わらず、この樹だけは丁度今が散り時。まさにお花見時だった。
「……こんなところがあったのね。知らなかったわ」
うっとりする一同。そんな中、歌乃ちゃんがポツリと呟いた。
「ここ『白薔薇のお庭』だわ……」
「え? 歌乃ちゃん?」
都が、その語意を確かめるまでもなかった。
はらはらと、まるで雪のように散る桜の花びらを全身に受けるかのように、その樹の下に立つ美少女を発見したから。
白薔薇のつぼみこと二条乃梨子さまだった。
美人さんは、何やっても絵になるな、と、一同が見惚れているのに、ハルちゃんはズカズカと桜に近づいて行く。
「ごきげんよう、白薔薇のつぼみ。お花見ですか?」
「ごきげんよう。そういう訳ではないけれど……」
枝を見上げていた白薔薇のつぼみ、目線をハルちゃんまで下ろした。
「貴女も、この桜に誘われて?」
「ええ、まあ、そんなところです……」
失礼にもハルちゃんは、じっと桜の幹を見つめて返事をする。
そして、ポケットからカッターのような物を取り出し、桜の幹に切りつけた。
「は、ハルちゃん? 何してんのっ!」
都が止めに入るけれど、ハルちゃんは空いた左手で、後ろ手で都を止め、さらに桜を切りつける……真似をした。
何やらブツブツ言いながら、横、縦、横……と順に切りつけ、最後にカッターのような物を突きつけて。
「……春海さん? 貴女、今……」
横で全てを見ていた白薔薇のつぼみが、少々青ざめながらハルちゃんに訊ねた。
「ええ、ちょっとイヤな感じのモノが見えたんで。内緒にしておいて下さいね?」
コクリと頷く白薔薇のつぼみに背を向け、ハルちゃんは都を引っ張ってみんなの元へと戻った。
「さて、この辺で食べようか」
何事もなかったかのように、ハルちゃんはバッグからビニールシートを取り出して、その場に広げた。
そして、見開きノート大の板を開いて、それ──小さな折り畳みテーブル──をシートの中央に置き、その上にお箸やらお椀を並べていく。
桜さんや燕さんは、きょとんとするけれど、都たちには慣れたもの。
早々にシートの上に陣取り、それぞれの包みを広げていく。
基本的に、歌乃ちゃんがおにぎり(ご飯モノ)担当で、都がおかず担当。
ハルちゃんは熱々のお味噌汁を、ステンレスのポットに入れて持って来る。
だから、三人揃わないと、ちゃんとしたご飯にならない。
誰かが欠席する時は、事前に電話をもらえる事になっている。
「……なるほど。常にお昼が三人一緒の訳、やっとわかったわ」
長年(?)の疑問が解消されて、満足そうな桜さん。
「あら、楽しそうね。私たちもお邪魔させてもらって、よろしいかしら?」
「あ、どうぞ。その辺、座って下さい」
相手も確かめずに、ハルちゃんってば「お椀の予備、あったかな?」だって。
「は、ハルちゃん?」
「何? みやっち」
平然とした顔で、追加人数二名分のお椀をテーブルに置くハルちゃん。
振り向きもしないで人数がわかるって事は、それが誰かもわかってるって事?
そんな底知れないハルちゃんは、タッパーウェアに別添えの具をお椀に入れて、その上からポットの中身のお味噌汁を注ぐ。
すでに煮てある具だから味は染みているし、ポットの中で煮え過ぎる事もない。
そして何より、ポットの内側にくっついて具が出て来ないって事もない。
「へぇ、よく考えてるのね」
関心しきりのお客様に、ハルちゃんは真っ先にお椀を差し出した。
「白薔薇さまの、お口に合いますかどうか」
やっぱり、わかっていたんだ。それが白薔薇姉妹だって事が。
「ふふふ、いただきます。私、山菜は大好物なの」
本日のお椀物は、山菜の白味噌汁でございます──なんて。
次に白薔薇のつぼみ、桜さんに燕さん、歌乃ちゃんに都と、ハルちゃんは順番にお椀を手渡していく。
「お味噌汁の『野点(のだて)』なんて、初めてだわ」
ニコニコ顔の白薔薇さま。ひょっとして、ご満悦?
「このお椀も、温かくて味があって、素敵ね」
「ありがとうございます。作ったお兄ぃも……いえ、叔父も喜ぶ事でしょう」
「叔父さまがお作りに? それは素晴らしいわね」
何だか、妙な雰囲気の、白薔薇さまとハルちゃん。
TVドラマの……そう、お見合いのシーンに似ている。
あとは、若い者同士で──なんて。
──でも、誰と誰の?
微妙な疑問を残しながらも、楽しく素敵な昼食会だった。
放課後。やっと慌しい一日が終わると思うと、ホッとする。
一年桃組恒例の音楽室の【掃除】は、今週は都たちの班だった。
防音の関係上、複雑な形をした壁面やら、じゅうたんが敷き詰められた床やら、結構面倒臭いので、音楽室の掃除を嫌がる生徒も多い。
その上、合唱部や器楽部など部活動で使われるために、早々に掃除を済まさねばならないのだ。
「都さん、終わった?」
クラスメイトの合唱部員、福原友絵(ふくはらともえ)さんが、音楽室に顔を出した。
「あ、ゴメン、友絵さん。もう終わるから……」
ふと見ると、内田渚(うちだなぎさ)さん、繭(まゆ)さんの双子は、動作もシンメトリーで道具を片付けているし、図書委員の真崎鈴(まさきすず)さんは清掃日誌を書き込んでいる。
「鈴さん、日誌は私が提出しておくから、もう行ってもいいよ」
「ありがとう、都さん。お言葉に甘えるわ」
掃除と委員会が重なって半泣きだった鈴さん、大慌てで図書館へと向かった。
「やれやれ、一年坊主は大変だぁ」
透き通るソプラノボイスで、友絵さんが呟いた。
かくいう彼女も、上級生のお姉さま方がおみえになる前に、部活の準備をしようと一番乗りしている訳で。
『都さん、私たちもよろしいかしら?』
見事なユニゾンを披露する、内田姉妹。
「ねえ、渚さん、繭さん。貴女たち合唱部に入らない?」
『ごめんなさい、私たち、音楽苦手なの』
友絵さんのお誘いに、やっぱりユニゾンで答えてる。
不思議というか面白いというか。
二人は『ごきげんよう』と見事なハーモニーを残し、足早に音楽室を去った。
「さて、じゃあ私も帰るか……」
と、都がカバンを手にしたところ──。
「ごきげんよう。都さん、まだいる?」
大慌てで音楽室に飛び込んで来たのは、やっぱりクラスメイトで新聞部員の地野京華(ちのきょうか)さん。
同じくクラスメイトで写真部員の夏目史香(なつめふみか)さんも従えて。
「えっと、京華さん? な、何か用かな?」
都が構えるのも、無理はない。
京華さんは、幼稚舎からずっと、何かにつけて都をライバル視して来たのだ。
こんな平凡な人間を、どうしてわざわざライバル視するかなぁ?
それは、高等部に進学しても、変わる事はなかったのだ。
まあ、いい子なんだけど……。
「何構えてんのよ、都さん。ちょっとこちらへいらして」
「何? 明日発刊のリリアンかわら版の早刷りでも見せてくれるの?」
都の何気ない言葉に、途端に固まる京華さん。
「や、やっぱり。侮れないわ、都さんって」
そう呟いて、京華さんはカバンから一枚の紙を取り出し、都に手渡した。
それは本当に、リリアンかわら版の原稿コピーだった。
「なになに?『紅薔薇のつぼみに妹候補出現か?』って? だ、誰だろう?」
記事を読んでも、それらしい事は書いてあるものの、さすがに誰それだと明言する文面にはなっていなかった。
プライバシーの問題もあるけれど、すごく気になる。
「でね、都さん。その空いたスペースには、この写真が載る予定なの」
今度は、史香さんが、都に写真を一枚手渡す。
「あ、可南子さまだ。やっぱ素敵な笑顔をなさって……あれ?」
思わず顔がニヤケたが、何かが引っかかる。
紅薔薇のつぼみが見せる笑顔なんて、聞いた事がない。
──いや、都は一度だけ、見た事がある。
この写真のお顔は、その時のお顔によく似ている──。
「あ、あのさあ? この、後ろ姿のポニーテールって……もしかして?」
紅薔薇のつぼみを真正面から撮っているから、タイを直されている小柄な少女は後ろ姿しか写っていない。
だから、それが一体誰なのか、読者の想像をかき立てる事となる。
そういえば、文面もそんな感じで書かれている事に、都は改めて気がついた。
「一応、ショック受けないようにというか、対処法を考える猶予を与えるっていうか。都さんに先に見せたのは、そういう訳なの」
写真を取り上げ、史香さんが言う。
「これ、今、お姉さま方が薔薇の館で発刊許可を取り付けてるから。つぼみの許可が出たら、明日の朝には、出るわ」
京華さんのお姉さまの山南夏芽(やまなみなつめ)さまは、紅薔薇のつぼみのクラスメイトで仲がよろしくていらっしゃるし、夏芽さまのお姉さまといえば、新聞部の部長で紅薔薇さまの親友ともいわれる山口真美さまではないか。
そんな彼女たちが、懇切丁寧に説得を続けたら──。
どう考えても、紅薔薇のつぼみが首を横に振る可能性は、とことん低い。
「え、えぇ~っ!」
ここが完全防音の音楽室で、よかった。
教室だったら、思わず職員室から先生が駆けつけるほどの大音量で、都は叫んだのだった。