Heaven's Gate #1

 


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする……のは、多分明日以降。
 今日のところは、真新しい制服に身を包んだ、汚れを知らない乙女たちが、緊張した面持ちで背の高い門をくぐり抜けて行く。

『私立リリアン女学園・高等部入学式』

 門の横の立て看板には、そう書かれていた。
 だから、挨拶もそこそこ、着飾った父兄に手を引かれ、足早に校門をくぐり抜けて行ってしまうのだ。
 父兄といっても、どちらかといえば、お母さんが多い。しかも、和服姿の。
 校門をくぐる新入生のほとんどが親子連れのなか、やはり同じく真新しい制服に身を包んだ新入生が一人、ポツンと門の外に立っていた。
 天野都(あまのみやこ)。
 今日より、憧れのリリアン高等部に入学する、見ての通りの新入生だ。
「……うわぁ、やっぱり、中等部とは違うなぁ」
 感慨深げに門を眺め、そして満足すると、中へ足を一歩踏み入れた。
 パシャッ。
「パシャッ?」
 ふいに聞こえたシャッター音に、都は振り向いた。
 自分の写真を撮ってくれる人など、都は連れて来ていない。
 また、その心当たりもない。
「ごきげんよう。ようこそ、リリアン高等部へ」
 カメラを携え、縁なし眼鏡の女生徒が一人、都に歩み寄ってきた。
 まあ、男子生徒だったら、それはそれで問題があるが……。
「ご、ごきげんよう」
 挨拶は、何があっても、まずはごきげんよう。
 幼稚舎以来、十一年間繰り返し教わった事は、都の身に染み付いている。
 だから、いきなり上級生のお姉さまにお声がけされたにしては、そこそこ及第点の返事をする事が出来た。
「あら、貴女、持ち上がり?」
「あ、はい。そうですけど?」
「ふーん……」
 訝しげに見つめる、眼鏡の上級生。
「あの、私に、何か?」
「いえね、しげしげと校門を見つめる子、貴女で二人目だったの。前の子は他校からの受験組だったから。父兄を連れてないのも同じだったし」
 確かに、リリアンの生徒はお嬢さまと、相場は決まっている。
 娘の晴れの舞台に出向かない親は、珍しいのだろう。
「まあ、いいわ。こっちよ」
 そう言って、眼鏡の上級生は、都を案内しようとした。
「あの……貴女は、もしかして、写真部のエース・武嶋蔦子さまでは?」
「そうだけど? もしかして私、中等部でも名が通ってるとか?」
「はい、もちろんです。リリアンかわら版、中等部でも大人気で……」
「……真美さんに、釘刺しておかなきゃならんかな?」
「え?」
「いや、なんでもない」
 一瞬、蔦子さまは額を掴むような仕草をなさったが、都は気づかなかった。
(うわぁ、入学早々、有名人に逢っちゃったよぉ~♪)
 単に、浮かれていたためなのだが──。


 青々と茂る葉の銀杏並木をしばらく行くと、急に視界が開ける。
 並木道の突き当たり。
 そこは、夢にまで見た場所。マリア様のお庭。
 小さな池や小さな森の、小さなお庭。その中央に立つ、白亜のマリア像
 カトリックの学校だから、校内の至るところにマリア像はある。
 中等部の敷地内にも、確かに数人のマリア様はいらした。
 でも、これほど荘厳な感じのするものは、今までに見たことがなかった。
 特別、熱狂的なカトリック信者というわけではない都にも、それは理解出来た。
 声を失い、お祈りをするのも忘れ、ただ圧倒されていた。
 まるで、宗教画の世界にでも紛れ込んだかのようで。
(わ、私、ここにいていいのかな……?)
 あまりに自分の存在が場違いな気がして、都は気後れしていた。
「ん? どうした?」
 そんな都の様子を察したのか、蔦子さまが声をかけた。
 ……と同時に、パシャッと。
「えっと……いいんでしょうか? 私みたいな者が、ここにいて」
「貴女はリリアンの生徒。マリア様に護られているんだから、いいのよ。それに、マリア様は寛大でいらっしゃるから……」
 言葉途中で、蔦子さまは銀杏並木に向かって、狂ったようにシャッターを切る。
 すると、並木道をたったったっと、規則正しい足音で──走ってる?
 白いセーラーカラーは翻らせないように、スカートのプリーツは乱さないようにと、耳タコになるまで言われるはずでは?
 だから、リリアンでは走る生徒など見られないと、OGでもある実の姉が言っていたのを、都は思い出す。
 でも──。
 とにかく、その生徒は、確かに走っていた。
 そして、マリア様の前で立ち止まり、手を合わせてお祈りをする。
 すると、どうだろう?
 それが、あたかも一枚の絵画のように、しっくりと来るではないか。
 口をポカンと開けて見ている都に向かって、蔦子さまはシャッターを切った。
「やめてよ、蔦子さん。恥ずかしいなぁ」
 その生徒──最上級生の蔦子さまとタメ口だから、三年生なのだろうが──は、自分が撮られたと思い、蔦子さまに抗議した。
「ごきげんよう。どうしたの、そんなに慌てて」
「いや……つい、いつも通りのバスに乗っちゃって」
 段カット──レイヤード・ボブ──の軽やかな髪を、ポリポリと照れながら掻いている上級生。とても人当たりがよさそうで、都も一緒にいて心地よく感じた。
「らしいというか、何というか。でも、まだ三〇分は余裕があるんじゃない?」
 入学式まで……だろうか?
 写真部の部長である蔦子さまはともかく、在校生は入学式には用がないのが普通であり、貴重な春休み最後の日でもあるはず。
「もう三〇分前? ヤバいなぁ。可南子たち、待ってるだろうなぁ」
「可南子ちゃんだけじゃないと思うわ。由乃さんも志摩子さんも……」
 腕時計に目を落とす蔦子さま。
 という事は、それが数分前ではないという事。
「げ、マズイな。それは」
 本当にマズイという顔をなさる。表情が豊かというか、何というか。
「ありがとう、蔦子さん。じゃあ、またね。ごきげんよう」
 都にも挨拶をし、その上級生は、また走る。
 でも、セーラーカラーを翻らせず、スカートのプリーツを乱さない、ギリギリのスピードで。
「はぁ……すごいなぁ」
 思わず声に出してしまって、蔦子さまに笑われた。
「でしょ? 何やっても絵になるのよね」
 そう言いつつ、走り去る彼女の後姿を、しっかりフィルムに収める蔦子さま。
「あら? 今の、祐巳さまでは?」
 蔦子さまに声をかけたのは、大型カメラの付いた三脚を担いだ美少女。
「ゆ、祐巳……さま? って、まさか?」
 幸いな事に、都の呟きは蔦子さまには届いていなかった。
「さすが、薔薇さまともなると、制服乱さず走るんですねぇ」
「笙子。それ、褒めてないから」
 や、やっぱり。さっきの人は『紅薔薇さま』福沢祐巳さまだったんだ……。
 でも、かわら版で見た彼女の姿より、実物は遥かに大人っぽくて優しそうで。
 髪型のせい──かな?
「さて、お姉さま。私たちはそろそろ行きませんと」
「だね。じゃあ、そこの貴女。私たちはこの辺で。ごきげんよう」
「あ、はい。ごきげんよう、蔦子さま。笙子さま」
 先程、紅薔薇さまが向かわれた方とは逆に、写真部姉妹は歩いて行かれた。
 マリア様の前で、一人残された都、ポツリと呟いた。
「ゆ、有名人、オンパレードだぁ……」


 マリア様へのお祈りを終え、都は校舎と向かう。
 一応、講堂の横の掲示板にクラス分けの紙が張られているので、それを確認。
 都の苗字は『天野』だから、大抵はすぐに自分の名前を見つけられる。
「一年……桃組か」
 呟いた途端、後ろからポンと肩を叩かれた。
 誰か、顔見知りの子かなと思って振り返ったが、そこには見知らぬ少女がいた。
「おはよう。貴女も桃組?」
 おはよう?
「ごきげんよう。一年桃組になりました、天野都と申します」
 ぺこりと頭を下げたけれど、貴女『も』という事は、彼女『も』桃組の新入生?
「やっぱ、リリアン入る子は、お上品というか、いいとこのお嬢さまというか」
 ポリポリと頭を掻く彼女。
 ちょっぴり色素の抜けた、ベリーショートのカーリーヘアは、まるで天使さま。
 顔立ちも何となく中性的で、すごく綺麗な美少女。
「いや、私、上流家庭とかじゃないから。親いないし」
「え?」
 彼女を固めるつもりで身の上を語った訳ではないが、何故口に出してしまったのかは、都自身にもわからなかった。
 彼女も父兄を連れていなかったから──なのだろう。きっと。
「あ、ごめん。そういうつもりで言った訳じゃないのよ。でも、逢う人逢う人、みんな『ごきげんよう』なんだモン。うんざりしちゃってさ」
「それは、仕方ないよ。リリアンでは、挨拶は何をおいても『ごきげんよう』なんだから。幼稚舎や初等部、中等部はもちろん、高等部は上級生のお姉さま方が厳しいから、特に気をつけなくちゃ」
「あ、だから私に、あんな丁寧な挨拶したんだ。なるほど……」
 腕組みをして、何やら考えるそぶりの彼女。
 美人さんは、得だな。何をやっても絵になるし……って、何処かで聞いたぞ?
「朝だけじゃなくても、昼でも『ごきげんよう』でいいんだ?」
「帰りの挨拶もだよ。『さようなら』じゃなくて『ごきげんよう』」
「TV番組みたいだね」
 そう言って、彼女は笑った。天使の微笑み。
「天野サンだっけ。私、鯨岡春海(くじらおかはるみ)。『ハル』って呼んでよ」
「春海さん……って、ひょっとして外部入学?」
「うん、そうだけど?」
「リリアンじゃ、名前にさん付けで呼ぶのが、暗黙のお約束なの。上級生は名前にさま付けで。下手に苗字なんかで呼ぶと、バカにしてるか突っぱねてるか、そんな風に取られるよ?」
「え? じゃあ、ニックネームとかは?」
「よっぽど親しい人と個人的に話すとき以外は、ほとんど使わないな」
「そっかぁ……」
 ちょっぴり残念そうな春海さん。
「せっかく、女友達ときゃぴきゃぴわいわい出来ると思ったのになぁ」
「全部が全部固い子ばかりじゃないから、それは可能だと思うよ? 現に私だってこんなんだし」
「じゃあ、都さん、私と友達になってくれる?」
「こんな私でよかったら、喜んで」
「こんな……って、まだ出会ったばかりだよ?」
 二人して、大笑い。
 これが、都とハルちゃんの、出会いだった。
「ごきげんよう、みや。こちらは?」
 水を差したのは、ワンレンボブが悩ましげな、ちょっぴり影を背負ったような、ハルちゃんとは対照的な美少女。
「ごきげんよう、歌乃ちゃん。今日から同じクラスになったハルちゃんだよ」
『ハルちゃん?』
 歌乃ちゃんとハルちゃん、見事にハモった。
「あ、鯨岡春海です。今日からリリアンでお世話になります」
「前橋歌乃(まえはしかの)です。どうぞ、よしなに」
「固いよ、歌乃ちゃん。ハルちゃんは私の友達なんだもん」
「いつから?」
 容赦なく冷たい視線を浴びせる歌乃ちゃん。
「……つい、さっき」
「だと思ったわ」
 そう言って、歌乃ちゃんはハルちゃんに向き合った。
「ごめんなさいね、春海さん。みやがご迷惑をおかけして」
「ぶーぶー」
 まるで保護者のような歌乃ちゃんに、都はブーイングを浴びせるものの、俯いた瞬間に視線を前髪で遮られてしまった。
「あ、いや、別に。っていうか、こういうの憧れてたから」

 聞けば、ハルちゃん、中学三年間、クラスで女子は一人っきりだったらしい。
 某有名進学校出身の彼女だが、その名を聞いて、都も歌乃ちゃんも固まった。
 それは、リリアンと同じく明治より続く、有名な私立の男子校だったから。
「は、ハルちゃん……いつ手術を?」
「やめてよ、みやっち。私が入学した年度から、ちゃんと共学だったってば。もっとも、そこの高等部は、その三年後──今年から共学だから、そのまま進学すると一生女友達出来ない気がして」
 だから、高校は純然たる女子校に……との事。
 ちなみに、その元男子校は、お隣の花寺学院と同じく仏教系の学校だとか。
「み、みやっち?」
「でも、そのうち飽きるかもよ?」
 クスクス笑う歌乃ちゃん。
 人見知りが激しい──訳でもないけれど、あまり人といる事がない歌乃ちゃん。
 勉強も運動も、人一倍出来るんだけど、何ていうのか、面倒臭いのか面白くないのか、一言でいうと、常に『冷めている』感じ。
 ──の割には、歌乃ちゃんは、よく都の世話を焼いてくれる。

 歌乃ちゃんは小さい頃、二歳年上の幼馴染みとよく遊んでいたとか。
 その人は身体が弱かったため、その年頃の子供が遊ぶような事をした事がなく、じっと大人しくせざるを得なかったという。
 それに付き合って、歌乃ちゃんは大人しくする事を覚えた。
 その人と一緒に大人しくしていれば、周りの大人が褒めてくれたから。
 その人の、さらに一歳年上の幼馴染みは、それこそ実の姉のように、歌乃ちゃんとその人の面倒を見てくれたらしい。
 昨年末、都の両親が事故で亡くなった時、気落ちした都を親身になって慰めてくれたのも、以前お姉さんがその人にそうしていたのを見ていたから。
 そうすれば、その人が喜ぶのを、歌乃ちゃんは子供ながらに覚えたから。
 以来、歌乃ちゃんは、都の世話を焼くようになった。
 
 その人が、それからどうなったのか……は、歌乃ちゃんの口からは、まだ聞いていない。
 都の方に、聞く体勢が整っていなかったのもあって、聞くタイミングを逃した。
 いずれ話してくれるだろうし、もし辛い事だったら、思い出させるのも……。
「さて、そろそろ行きますか?」
 歌乃ちゃんの言葉に、ハルちゃんが反応した。
「あれ? 歌乃っち? ご両親は?」
「父は仕事、母は講堂。教室には生徒しか入れないもの」
 自分が『歌乃っち』と呼ばれても、動じない歌乃ちゃん。やっぱ大物だわ。
「なるほど……」
 都もハルちゃんも、来ない事がわかっている父兄用の案内文なんて見ないから。
「ほら、置いて行くわよ? みや、ハル」
『え?』
 思わず顔を見合わせる、ハルちゃんと都。
 そして、ニヤリと笑うと、二人して歌乃ちゃんを挟んで肩を組む。
「ちょっと、重いわよ。二人とも」
『あはははは~』
 澄みきった青空に、乙女たちの笑い声がこだました。


 教室に入ると、見知った顔、初めての顔、さまざまな生徒が着席していた。
「お? 何、全部女?」
「ハルちゃん、ここは女子校だって」
「そうでした……」
 机に名前のシールが貼ってあるらしく、ハルちゃんも歌乃ちゃんも、それぞれ自分の席を見つけて着席した。
 都は……と、見回したところ、見知った顔の一人、楓さんが手を振っていた。
 楓さんは、中等部三年の時のクラスメイトで、さまざまな話題で盛り上がった。
 特に圧巻だったのは、高等部限定で発刊されるはずの学校新聞『リリアンかわら版』を、発刊翌日には入手していて、都に見せてくれた事。
 高等部に在籍している、彼女の実のお姉さまが、一枚余分にもらって来てくれるとかで、彼女自身も山百合会、薔薇さま方やその妹──つぼみ──たちの情報には詳しかった。
 白薔薇さまとクラスメイトという彼女の姉の名は、確か、桂さま……だったか。
 楓さんに手を振り返し、都も席に着く。
 その後数人が教室に入ったところでチャイムが鳴り、担任と思われる女性教諭が入室、そのまま教壇に立ち、挨拶を始めた。
「みなさん、入学おめでとう」


 厳かな入学式の最中、ちょっとしたハプニングが。
 青い制服に身を包み、ヘルメットを抱えた白バイ警官一名、講堂に現れたのだ。
 ちょっぴりざわつく講堂内。
 先生の一人が事情を訊きに行く……けれど、タネを知っている都には、別に驚くような事ではなかった。
「ねえ、みやっち。何だと思う?」
 斜め後ろの席から、ハルちゃんが尋ねて来た。
「ああ、歌乃ちゃんのお父さまよ。娘の晴れ姿を見に来たんでしょう」
 見ると、歌乃ちゃん、やっぱり頭を抱えてた……。
 そんな、急に降って湧いた騒乱(?)を鎮めたのは、校長先生の訓話でも、シスターの叱咤でもなく、壇上に上がった一人の生徒だった。

『みなさん、ご入学おめでとうございます。今年度、紅薔薇を務めます、福沢祐巳と申します』

 紅薔薇さまのお声が、壇上のマイクを通しスピーカーから流れた瞬間、ほとんどの生徒がピンと背筋を正し、そのお言葉の一言一句を聞き漏らすまいという姿勢に変わった。
 ほとんどが中等部の持ち上がりだから、中等部の祐巳さまを知る者もいる。
 シンデレラ・ストーリーを地で行った祐巳さまの数々の伝説は、だから新入生のほとんどが知っているのだ。
 そして、一声で新入生たちを鎮めたこの行為は、広く父兄の間にまで知れ渡る事となった。
「ねえ、みやっち。ロサ・キネンシスって、何? あれ誰?」
「ハルちゃん、静かに。後で説明するから」
 涙を流して、紅薔薇さまからの祝辞を聞き入る生徒もいる。
 かくいう都も、その一人だった。


 カランとドアベルの鳴る扉を開け、都はK駅北の、とある喫茶店に入った。
 別に、寄り道している訳ではない。その証拠に──。
「ただいま~」
「おう、お帰り、みやちゃん。どうだった?」
 カウンター越しに、お店のマスターが都に声をかけた。
 九尾輔(ここのおたすく)さん。
 このお店『カフェレスト・task』のマスターであり、都の義兄でもある。
「うん、ばっちり。新しい友達、出来たよ」
「ごめんね、都。私だけでも行ってあげればよかったわね」
 エプロン姿のママさんは、九尾沙耶子(ここのおさやこ)。旧姓・天野。
 都の実の姉であり、リリアンのOGでもある。
 昨年、両親が亡くなった時、リリアン女子大三年に在籍していたお姉ちゃんは、急遽大学を自主退学。元々お付き合いしていた二人は、直後入籍。
  お義兄さん──輔さんのところへ、姉妹共々転がり込む事になった。
 都も高校へは行かずに働こうと思ったが、それはお義兄さんに猛反対された。
 お義兄(にい)さんは「沙耶子も大学辞める必要なかったんだぜ?」と言う。
 でも、お金のかかる事は、極力避けたくて。
 ただでさえ、一人余分なのだから。
 二人の結婚式は、このお店で慎ましやかに行われた。
 参列者は、二人の友人だけの質素なお式だけれど、それでも幸せそうだった。
 お互い、参列してくれる親はいなかったから。
 この時お姉ちゃんは、友人の大切さを都に力説。
 実際に目の当たりにした都は、反論の余地がなく、友達作りのために高校へ通う事となった。
 一度は諦めたけれど、リリアン高等部の制服を着るのは、実は都の夢だった。
 幼稚舎から、お姉ちゃんについて行くようにリリアンに通っていたから。
 そして、お姉ちゃんとお義兄さんは、都の高校進学を自分の事のように喜んでくれている。
 だから都は、二人の厚意に素直に感謝する事にした。
「お、いたいた」
 カランとベルが鳴り、お客さまがご来店。
「いらっしゃい……なんだ、しのぶか」
「随分と、ご挨拶ねぇ、沙耶子」
 お姉ちゃんの元同級生、有馬(ありま)しのぶさんだった。
「みやちゃん、高校入学、おめでと~」
「みゃうっ!」
 いきなり後ろから抱きしめられ、都はまるで仔猫のような声を上げた。
「しかし、懐かしいな。リリアンの制服」
「しのぶ、お店で着たら?」
「うちはコスバーじゃないから」
 しのぶさんは、都心の高級ホテルのバーにお勤めで、つい最近ソムリエの資格を取得されたとか。
「はい、入学祝い」
「わぁ、ありがとうございます」
 都の背中に張り付いたまま、しのぶさんは小さな包みをくれた。
 中から出てきたのは、ブランド品のボールペンとシャーペンのセット。
 しかも“Miyako”と、ネーム入り。
「うわぁ……もったいなくって、使えないですよ」
「あはは。シャーペンの替え芯なんて、コンビニでも売ってるでしょうが」
「あ、そうか……」
 そういえばシャーペンもボールペンも、減るのは中身だけだった。
「ボールペンの替え芯はロフトでも売ってるから、気にせず使ってやって」
「すみません、ありがとうございます」
「うんうん、可愛いなぁ。みやちゃんは」
 背中から離れたしのぶさんが都の隣に座ると、お義兄さんがコーヒーを出す。
「お。輔さんのコーヒー、ホント美味いんだよなぁ~」
「コラコラ、しのぶちゃん。煽てても、コーヒー代くらいしか出ないぞ?」
「輔、甘い!」
 お姉ちゃんがツッコミを入れる。
「へへへ、ごっつぁんです」
 手刀を切って、しのぶさんはカップに手を伸ばした。


「みやちゃんも、リリアン生か。早いもんだね」
 厳密に言えば、都は幼稚舎からのリリアン生であるが、一般にリリアン生といえば、高等部の生徒を指す。
「そうそう。しのぶが薔薇の館で酒盛りしてたのが、つい昨日のように思い出されるのにね」
「してないって。薔薇の館じゃ」
 じゃあ、何処で?
 思わずツッコミを入れそうになった都だが、ちょうど口いっぱいに、お義兄さん特製のペスカトーレ・スパゲティを頬張っていた最中だった。
「まあ、願わくば、みやちゃんに渡って欲しいものだね。私たちのロザリオ
 都は思わず、口の中のものを全部吹き出しそうになった。
 し、しのぶさんのロザリオっていったら、あれよ?
 全新入生が欲しがるであろう、限定三本のうちの一本。白薔薇のロザリオ。
「あら? しのぶのロザリオって、途絶えたんじゃないの?」
「怖い事言わないでよ、沙耶子。ちゃんと続いてるから。ね? みやちゃん?」
 何でこっちに振るかなぁ?
「……じゃあ、ちゃんと繋がってるっていうのね? 白薔薇家」
「うん、確認した。聖ちゃん、ホント人が変わったような、いい顔してたなぁ」
「えっ?」
 お姉ちゃんが凍りついた。
 まるで、信じられない物を見たかのような、そんな感じで。
「あ、あの聖ちゃんが? 人を寄せつけなかった、あの?」
「ん、蓉子ちゃんたちのおかげらしいよ。詳しくは訊いてないけれど」
「蓉子ちゃんといえば……」
 急にお姉ちゃん、怒り出した。
「アンタが蓉子ちゃんをネコ可愛がりするから、陰で鮎美が毎日泣いてたのよ」
 新島鮎美さんは、リリアンでのお姉ちゃんの『妹』で、蓉子さんはその『妹』。
「いいじゃん。鮎美は、私のお姉さまにネコ可愛がりされてたんだから……」
 ちょっぴり拗ねたように、しのぶさんが言った。
 大人になった今でも『姉』の寵愛が恋しいらしい。
「ねえ、みやちゃん。リリアンで『お姉さま』って、大事よ。スールを申し込まれても、安易に乗っちゃダメよ?」
「は、はぁ……」
 いきなり肩を掴まれて、驚いた都はトマトソースを飛ばしそうになった。
 今日下ろしたばかりの制服に飛んだら、泣くに泣けない。
「せめて、私のか沙耶子のが来るまで、いや、自分から奪いに行くのも手よね」
 恐ろしい事を言わないで欲しい。
 お姉ちゃんのロザリオって、お姉ちゃんから新島鮎美さん、水野蓉子さん、そして究極お嬢さまの小笠原祥子さま、そして、あの福沢祐巳さまに渡った紅薔薇のロザリオなんだから。
 そして、現在それを持っているのは、気高くも美しい、クール&ビューティー。
 あの『紅薔薇のつぼみ』細川可南子さま。
 都なんて、安易に近付こうものなら、その存在感だけで吹き飛ばされてしまう。
 トップモデル並みの背の高さ。流れるように艶やかな長い黒髪。眼光鋭い瞳。
 どれをとっても、都は足元にも及ばない。
 お声がけすら、きっと出来ないだろう。
 実の姉が、その昔薔薇さまだったからって、その妹が無条件で薔薇さまになれる訳じゃない。
 現黄薔薇さまの島津由乃さまは、そのお姉さまとは従姉妹でいらしたという血の繋がりがあるけれど、それもすぐ一代上だから、まだ許される事なのだ。
 かといって、しのぶさんの白薔薇のロザリオは、元祖クール&ビューティー日本人形のような美しさを誇る『白薔薇のつぼみ』二条乃梨子さまがお持ちになっていて、都がそのお眼鏡に適うとは到底思えない。
「無理だよ、そんなの……」
 消え入るように呟く、都。
 でも、出来る事ならば、憧れの細川可南子さまと、お話だけでもしたいな。

 ──夢は持つもの、叶えるもの──。

 とはいえ、その前に立ちはだかる壁の大きさに、都は溜め息しか出せなかった。


à suivre...