猫のマリア様 ~白薔薇さまの猫~(prologue)

 



「ヤホー」
 聞き覚えのある声に振り向くと、見知った上級生がこちらに手を振っているのが見えた。
 軽く頭痛を覚えながらも、私は彼女の下へと赴く。
 無視することは出来なかった。何しろ彼女は、我がリリアン女学園で憧れのお姉さまトップ3のお一人なのだから。
「……ごきげんよう、白薔薇さま」
「あら、そういう貴女は、ご機嫌よろしくなさそうで」
「そんなこともない、ですけど……」
「けど?」
「ヤホー、だなんて。何処の登山家かと思いまして」
 ちょっぴり含みのあるツッコミを入れる。
 とはいえ、私が彼女に口といえども、勝つことは出来ない。
 のれんに腕押しとまではいかないが、私が何をしても上手く躱されてしまうのだ。
 むしろ、嬉々として遊ばれている感がある。
 伊達に薔薇さまを名乗っているわけではない。
「ふふふ。そこに山があるから登るのよ」
「山って……なんか目つきがいやらしいんですけど?」
「ほら、そこにそびえるツインピークス。も少しヨセミテ」
「な、何ワケわかんないこと言ってるんですかっ。大体、その手つきもいやらしいしっ」
 私の胸の前で両手をわきわきと、揉みしだく仕草をする。
 まさか、本当に胸を揉まれるわけではないだろうが。
「で、貴女の、その憂いの原因は何かしら? 私でよければ力になるけれど?」
 やっぱり、彼女は凄いと思う。
 胸に染みるような、落ち着いた優しい声で囁かれたら、誰だって甘えたくなるだろう。
「いえ、憂いというほどのことではないんですが……」
 私は、だから口に出したのだ。
 今更、他人には聞けないだろう、些細な悩みを。
「絶対笑わないって、約束してくださいますか?」
「マリア様に誓って」
 そう言って、白薔薇さまは挙手してくれた。
「──のマリア様って……」
「えっ?」
 私の言葉に、白薔薇さまは眉間にしわを寄せた。
「いえ、ですから……その……」
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一度お願い」
 叱られたわけではなかった。NGワードというわけでもなさそうなので、今度ははっきりと言ってみた。
「猫のマリア様って、どんな方なんでしょうか?」
「えっと……」
「白薔薇さまなら、きっとご存じですよね?」
「あ、ああ……まあ、ね」
 視線を泳がせている白薔薇さまを見るのは、本当に珍しい。
 薔薇の館で紅薔薇さまとやりとりしているときくらいか。
「ていうか、貴女、知らなかったの?」
「そんなに有名な方なんですか?」
 お姉さまとか、姉の姉──いわゆるお祖母ちゃんに当たる紅薔薇さまには、恥ずかしくて聞けなかった。
 そんなことも知らないのか、と叱咤されるのは怖いから。
「そうか。それで貴女は私に逢いたかったのね?」
「えっと……」
「白状しろ」
「だから、その手はやめてくださいってば」
 胸元でわきわきと、くすぐりのポーズ。
「わ、わ、ち、違いますって。確かに猫のマリア様にはお会いしたいと思いましたが、白薔薇さまには……」
「ほほぉ、この私には逢いたくないと? お前なんぞ、顔も見たくないと?」
「言ってませんってば。やーめーてーっ。きゃんっ」
 伸ばした手が、私の胸に触れた。
 まあ実際には、制服のセーラーカラーを若干乱す程度で、私の身体に負担を掛けることはないのだが。
 ひとしきりじゃれ合ったあと、白薔薇さまが私のセーラーカラーを直すのも、またお約束で。
「そうよねー。私に逢いたいだなんて物好きは、お前くらいのものよね―」
 台詞棒読みで足下に目をやる白薔薇さま。
 釣られて私も見下ろすと、そこには一匹の黒っぽいトラ猫。
 白薔薇さまの足に身体をすりつけていた。
「ら、ランチ!」
「らんち? これはゴロンタだよ」
 白薔薇さまはランチを抱き上げ、頬ずりしている。
「一年生の間ではランチと呼ばれていますよ、この猫。お昼時に現れるから」
 お姉さまはメリーさんと呼んでいたけれど。
「へぇー。学年によって違う呼び方が定着してるのかー」
 一年生にはランチタイムに遭遇するからランチと呼ばれ、それを二年生にメリーさんと教わり、それが定着する頃には自身も学年が一つ上がっているというわけだ。
  三年生──特に薔薇さま方──が呼ぶゴロンタは、自身が最上級生となり、薔薇さま方が恐れ多くなくなってくる頃になって、初めて口に出来るのだろう。
 かくして三つの名前を持つ猫が出来上がる。
「まあ、メスなのにゴロンタってのも、失礼な話よね」
「それ、今まで呼んでた白薔薇さまも同罪ですよ」
 ハハハと笑ってランチの喉に手をやる白薔薇さま。
 ランチも気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「しかし、よくなついてますねぇ。こんなに人なつっこい猫だとは知りませんでした」
 お弁当のおかずを差し出しても、半径一メートル以内に人がいると、近くにすら寄ってこないのに。
「この子はね、私のことを信じているの。だから甘えてくるのよ」
「あ、あの、私だって、白薔薇さまのことを信じてますよ」
「そうねー。だから貴女も甘えてくるのねー」
 ランチを片手で抱き直し、白薔薇さまは空いた片手で私の頭を撫でてくる。
 私は猫じゃないんですけど……。
 でも、気持ちいいのは確かで。
「白薔薇さま、私もランチを触っていいですか?」
 この機を逃せば、私がランチに触れられることは、多分ないだろう。
 白薔薇さまはランチと相談──もちろん無言で──したあとに、ずいっと私にランチを押しつけてきた。
「え?」
 思わず受け取り、結果として私がランチを抱き上げる格好になってしまった。
 居心地悪そうな顔をするランチに、白薔薇さまは笑う。
「たまには違う人に抱かれるのもいいモンでしょ? まあ、色々不足はあるだろうけど」
 そりゃ、確かに私は胸が足りませんけどね。
 細いくせに出るとこはしっかり出ていて、なおかつ上背もある白薔薇さまには、何もかも敵いませんよ。
 一体そのセーラー服の中には、何が入っているのやら。
 ため息を一つ吐いて、私はランチを撫でた。
 野良の割には、毛並みが綺麗で柔らかくて。
 そして温かくて気持ちいい。
 ただ、身体の所々に、毛の生えてない場所があって。
 小さなものだから、撫でていないとわからないのだが。
「白薔薇さま、これって……」
「うん。この子ね、以前カラスに襲われてたんだ。一昨年の初夏……いや、春先だったかな」
 それを、白薔薇さまが助けたのだろう。
「家で飼ってもよかったんだけど、ゴロンタ──あ、その頃は別の名前で呼んでいたんだけど、この子に訊いたら学校にいる、って言ったから」
「猫が話しましたか」
「この子は特別。だから、犬並みに私のことも忘れない」
 ねー、と言って、白薔薇さまはランチを抱き上げ、もう一度頬ずりをして、そして地面へと降ろした。
 それからポケットに手を突っ込んで、小さなビスケットみたいなものを取り出すと、ランチの目の前に置いた。
「猫のドライフード。欲しけりゃあげるよ?」
 またポケットから取り出して、私の前に差し出した。
「いえ、結構……」
 そんなに物欲しそうに見えたのだろうか?
 それとも、私も猫扱い?
「そう? 美味しいのに……」
 そう言って白薔薇さまは、いきなりそれを口にした。
『なっ?!』
 思わずハモる、ランチと私。
 バリバリとドライフードを噛み砕きながら、白薔薇さまは猫のマリア様にまつわる話をしてくれた。


  長くなるけどねー、と、前置きをして。

 



to be continued...