帝釈天がみてる #02

 


 福沢祐希の朝は早い。
 朝の五時にはベッドを抜け出し、既にジャージに着替えている。
 そして、家から二~三キロ離れた大きな公園へと走る。
 公園には大きな池があり、その外周路をほぼ五周──約八キロを走るのだ。
 都内でも割と知られたジョギングコースだけに、多いときには市民マラソン大会かと思うほどの人で溢れ返すが、祐希の走る時間帯はさすがに早くて、祐希が走り終わった頃にポツポツと近所のランナーが出てくるくらいだった。
「坊、おはよう。今日も精が出るな」
 ご近所ランナーで顔見知りの小父さんが、祐希に声をかけてきた。
 ついでにペットボトルのスポーツドリンクを投げて寄越す。
「うぃ~っす、ゴチになります」
 ペットボトルのキャップを捻り、祐希は一気に飲み干した。
「ヒデさん、坊って……どう見ても嬢ちゃんじゃないっすか──」
 ヒデさんと呼ばれた小父さんのお供が、何やら口走ったが、敢えて無視する。
「バカヤロ。お前長年この辺住んでて、元リトルシニアのエースの顔も知らんのか?」
 ヒデさんも無理を言う……三年前のガキの顔など、そうそう覚えていられるモノでもないだろうに。
「リトルシニアの記録は半年ほどだが、それでも登板試合は無失点。在籍通算自責点〇の伝説的ピッチャー、福沢祐希だぞ、彼は」
 その説明がむず痒く。祐希は照れ隠しで空のペットボトルをゴミ箱へと投げた。
 自販機横のゴミ箱の、小さな穴にストライク。
 小突かれたオッサンは、それを見て目を丸くした。
「そういや、坊は今年から高校生だったな。何処行ったんだ?
 そう訊ねられて、祐希は溜め息一つ。
「花寺っす。中学から、そのまま持ち上がりで……」
「花寺? あそこ、野球部強かったか? ……まさか?」
「そのまさかっす。オレ、もう野球出来ないんで……」
 うーんとヒデさんは唸って、そして何やら思い出す。
「アレか、三年前の夏の大会……そんなに酷かったのか?」
「まあ、内臓疾患といいますか……激しい運動すると血尿酷いですし……」


 その大会は、それはヒドいモノだった。
 地区大会、関東大会とギリギリながらも勝ち残り、迎えた全国大会。
 地面の温度は四〇度を遙かに超えるような炎天下での試合が続き、それまでの連投に次ぐ連投──とはいえ、前回一試合七イニングを投げきった投手は、次回投球三イニングまでという連投規制はある──で、疲れもピークに差し掛かっていたのだろう。
 決勝戦の当日は、朝から腹が痛かった。
 それでも我慢出来ないほどではなかったので、祐希はチームと合流し、バスに揺られて球場まで行ったのだ。
 なにせ祐希にとっては初めて参加するリトルシニアの大会で、三年生投手を差し置いてエースの座まで上り詰めていたのだから。
 シクシクと痛む腹を抱えて、祐希はベンチから精一杯声援を送った。
 試合はといえば、三年生の元エースが登板。
 昨日の準決勝で七イニング完投している祐希は、規定で今日は三イニングしか投げられないため、ベンチスタートだった。
 開始直後の第一球目、出会い頭にホームランを撃たれたものの、その後なんとか立て直し、最少失点で踏ん張っていたのだが……。
 五回の表、ノーアウト満塁のピンチを招き、降板と相成った。
 マウンド上で泣き崩れるセンパイからボールを預かると、彼の肩をぽんと叩いてベンチへと送る。
 あとは、祐希が普通に投げれば、それでよかった。
 六回裏、二アウトで祐希の前に四球でランナーが出た。
 我がチーム、この試合初のランナーだった。
 そして祐希の初打席、センターオーバーの三ベースヒットで、まずは同点。
次のバッターに出たベンチからの指示は、スクイズバントだった。
 ノーボール二ストライクからの三バントスクイズ、辛うじてバットに当たったものの、ボテボテのキャッチャーゴロだった。
 このままじゃバッターが一塁でアウトになる。
 九分九厘望みのないまま、祐希はホームへと突っ込んだ。
 そして、相手キャッチャーの激しいブロックを掻い潜ってホームベースにタッチした瞬間、祐希は相手キャッチャーの膝蹴りを喰らった。
 審判から見たら正当なブロックに見えたらしく、そのまま祐希はアウトとなった。
 監督の抗議も聞き入れられず、試合は最終回。
 三者凡退で切り抜けた祐希は、最終回の攻撃を見ることは出来なかった。
 マウンドを降りようとしたところで、元々痛む腹に膝を喰らったのも加算され、その場で崩れ落ちたのだ。
 その際、股間に激しい出血の跡があったことに、救急車に乗せられて搬送されるまで、誰も気付かなかったのだ。
 病院のベッドで気がついた祐希の腕には、点滴の針が刺さっていた。
 暫くして父が病室に入ってきて、祐希に言った。
「軽い貧血と脱水症状。あと……」
「あと?」
「内臓に異状が見つかったらしい。詳しいことは大きな病院で検査するが……野球は……」
 なんとなく、わかってしまった。
 祐希はこの先、特に高校では野球が出来ないのだと。


「……そうか、残念だな。今年の夏は甲子園で声を枯らそうかと思ってたんだが」
 心底残念がるヒデさんの尻をぽんと叩いて、祐希は笑った。
「また走りに来ますんで」
「ああ、頑張れよ」
「うす、ジュースゴチでした。じゃ、オレ学校あるんで、失礼します」
 笑顔で挨拶して、オレは家に向かって走り出した。
 引き攣ってなければよかったのだが──その笑顔が。


 家に帰って、シャワーで軽く汗を流す。
 当然ながら服を脱ぐワケで、ここで祐希のコンプレックスが最大限に発揮(?)されることとなる。
「しかし……いつ見ても慣れねぇな、こればかりは……」
 あの夏、退院して暫くすると、祐希は身体中に違和感を覚えるようになった。
 陽に焼けて黒かった肌は、特に屋内に引き籠もっていたわけでもないのに日に日に白くなっていく。
 そして目一杯筋トレをしても、一向に筋肉が付いてこない──むしろ筋力が落ちていく感じがするのだ。
 更に輪を掛けてヒドいのが、この胸の肉だった。
 最初は虫に刺されたかと思うほどの小さな腫れだったのが、あれよあれよと育って(?)しまい、今では見るからに『おっぱい』と言っても過言じゃないくらいの膨らみになってしまっていた。
 股間など、最悪と言ってもいい。
 確かに、突起は確認出来る。
 ただ、大きくなったとしても、精々が小指の先ほど……どう考えても女性のアレに入れられるサイズではないのだ。
 ぶら下がっているハズのタマにしても、本来ならここに入るんだろうなぁ……って痕跡が見られる程度で、袋と言うよりは単なる襞でしかない。
 さすがに他人のモノと比べたことはないが、明らかに異様だと自分でも思う。
「ホント、これが男の身体かねぇ……?」
 とはいえ、これが自分の身体なのだから、仕方がない。
 こびりつく雑念を流し去りたい一心で、祐希はシャワーの温度を上げた。


「あ、祐希、おはよー」
 浴室から出ると、脱衣所兼洗面所には祐巳(あね)がいた。
 髪のクセが強くてなかなか纏まらないため、結構早くから悪戦苦闘するのが、彼女の日課だ。
「おはよう。そこ、跳ねてるぞ?」
「へ? うわ、最悪……」
 手鏡と洗面台で確認して、がっくりと肩を落とす祐巳。
 それほど長いってわけじゃないんだから、下ろしていけばいいのに、とも思うが、彼女なりのこだわりがあるらしく、頑なに『二つ結い』を崩さない。
 ツインテール? 怪獣がどうした?
「ほれ、貸してみ」
 祐巳からブラシとヘアゴムを預かると、ササッと結い上げてやる。
「ありがとう、いつもゴメンね?」
「こんなモンは、お安いご用だが……」
「しかし……また大きくなってない?」
 祐巳の視線が、祐希の胸に注がれていた。
 さすがに腰にはバスタオルを巻いているので、そちらはスルーらしいが。
 その間に、さっさとボクサーショーツを穿く。
「私より大っきい……羨ましい」
「欲しけりゃやるよ。てか、頼むから持ってってくれ、切実に……」
 上は、ウエットスーツのような素材のタンクトップを着る。
 父が何処からか見つけてきたものだが、これを着ると胸の膨らみが隠せるだけでなく、厚い胸板にさえ見える優れ物だ。
 男にしては細い腰も、これなら逆三角形に見えなくもない。
 あとはカッターシャツにズボンに靴下、学生服を羽織れば男子高校生の出来上がりである。
「じゃあな、先行くぞ」
「あ、祐希……」
 着替え終えて脱衣所を出ようとしたら、真剣な顔をした祐巳に呼び止められた。
「どうした?」
「朝ご飯の玉子焼き、スクランブルエッグにして欲しいの。ふわとろの」
 祐希ががっくりと肩を落としたのは、言うまでもない。


 そんなこんなで、二週間。
 今日も今日とて花寺名物『源平の関』を、いつものようにショートカットしようとする祐希を(物理的に)呼び止める者ありけり。
「……ぐぇっ」
 祐希の詰め襟を引っ張るのは、花寺広しといえどもコイツだけ。
「……おはよ、祐希」
「うす。てか、もう少しお淑やかに呼び止められんものか? アリス……」
「祐希の足、速いから……」
 その割りに、ピンポイントで詰め襟掴むのな、お前……。
「で、珍しいな、登校中に会うのは。部活始めたんじゃなかったっけ?」
 何部かは聞いていないが、胸ポケットから見える生徒手帳のカバーが紅かったから、平氏──文化部系なのは間違いない。
 ちなみに何部にも属していない祐希は、初期装備の黒いカバーのままだ。
「うん、一度部室に寄ってから来たの。待ってたのよ」
「オレを?」
 頷くアリスの顔は、何処か青ざめていた。
「で、単刀直入に訊くけど。祐希、貴方一体何をやらかしたの?」
「は?」
 特に記憶がない。
 強いて言えば、通学に源氏の道も平氏の道も、一度も通ったことがないくらいだ。
「呼び出されてたわよ? 掲示板で」
「掲示板?」
「生徒会室横の。部活動の案内とかお知らせとか掲示されるから、毎朝チェックするんだけど、そこに」
「呼び出し? 一体誰が……ぐぇっ」
 慌てて駆け出そうとする祐希の詰め襟を、またもアリスが掴む。
「ちょっと祐希、私にそこを通れと言うの?」
 いや、そこまで一緒に行く必要もないだろ? と言いかけて、祐希は言葉を飲んだ。
 アリスは、わざわざ校舎から校門まで戻って知らせてくれたのだ。
 現にアリスは通学時に必須の学生鞄を持っていない。
「こっちよ」
 アリスに手を引かれ、祐希は生まれて初めて平氏の道を歩くのだった。


「う~む、マジか……」
 生徒会の角印が捺されている以上、これが偽物であるとは、さすがの祐希も思えなかった。


『一年B組 福沢祐希、本日昼休み生徒会室に出頭せよ』


 そこには、確かに自分を呼び出す生徒会名義の書類が貼ってあったのだ。




to be continued...